巖手県大槌町の震災後の光景
その後すぐに各方面の正確なデータが発表された。それぞれの震度も調整され、新幹線、都電、地下鉄、バスなどはほぼ3~4分の間に前後して一時運休を決定した。「今日は交通機関の復舊は難しいだろうから、みんな帰っていいよ。」上司の一言で、その日は4時過ぎに仕事が終わった。
會社の休憩室には客用のミネラルウォーターがあり、冷蔵庫にはお菓子が入っていた。田原氏はミネラルウォーターを2本とピーナッツを持って十數キロ離れた家に歩いて帰ろうと決めた。
道路には人があふれていた。タクシーはつかまらず、機転を利かせて自転車を買って家路を急ぐ人もいた。みんな特に慌てた様子もなく、攜帯の電波も不安定ではあったが、すでにつながるようになっていた。
田原氏は荷物もそれほど重くないし、音楽を聴きながら何キロか歩けばバスに乗れるだろうと考えていた。しかし、その考えは甘すぎた。4~5キロ歩いて繁華街を抜け、東京タワーが見えなくなってもバスは見當たらなかった。道路には數えきれないほどの人々がみんな歩いていた。コンビニで水や食料を買うことはできたが、近郊に近い店ほど品薄になっていた。
田原氏は十數キロを6時間かけて歩いた。この日、東京で働く數百萬人のサラリーマンはみな歩いて帰宅した。
しかし、誰も文句を言う者はなかった。みんな明日には全てが元通りになると信じていた。都電も地下鉄も通常通り運行し、またいつもの生活が送れるのだと思っていた。彼らは知るよしもなかった。2011年3月11日を境に、日本は1995年の阪神淡路大震災以上に長く苦しい復興の道のりを歩まなければならなくなったことを。
避難所
田原氏はまだ幸運な方だった。家から數十キロ離れた所で仕事をしている多くの人は、その日帰るに帰れなかったのだ。ホテルも予約でいっぱいになり、政府の開放施設や學校で一夜を過ごした人もいた。
日本の大多數の地域で、県等が所有する建物はそれほど豪華なものではないが、そこには必ず備蓄された水や食糧があり、地震や臺風等の際には、みなそこへ非難するようになっている。また、學校の建物も災害時に皆が集まる場所になっている。