8月15日が近づいてきた。アジアの人々の視線が日本に集まっている。靖國神社を5度にわたり頑なに參拝しつづけ、日本と近隣諸國の関係を著しく損なってきた小泉純一郎首相は、退陣を控え、衆(zhòng)人環(huán)視の中で再び時代の流れに逆らい、靖國神社を參拝するのだろうか――。このことが、何億人もの人が関心をよせる焦點となっている。
小泉首相は、最後の機會に參拝をやめてもよいのだ。
小泉氏は一貫して、參拝は「個人の心の問題だ」、「他人がとやかく言うべきことではない」と語ってきた。これについては、紙面を割いて細かく反論するに値しない。一國の首相として、個人の心の問題と國益のいずれが大事か、天秤にかけて測るまでもないだろう。
人々が小泉氏の參拝を単獨の個人的な問題と捉えることができないのは、小泉氏の身分が一般人と異なるためだけではない。より重要な原因は、小泉氏の行動が戦爭評価を覆そうとする日本の右翼の動きをもたらし、小泉氏がこうした風(fēng)潮を助長する旗印となっていることだ。
小泉氏は「平和のために祈る」と稱して靖國神社に赴きながら、中國や韓國との関係を改善したいと再三述べている。これは不可解なことだ。誰もが知る通り、靖國神社は中韓の人々の血で手を染めたA級、B級、C級の戦犯が祭られているだけでなく、侵略を功績だと吹聴し、戦爭評価の転覆を正當(dāng)化し、東京裁判の正義を極力否定しようとしている場所だ。真に平和を愛する人が、そのような場所で祈ることがあろうか?真に近隣國との関係を改善したいと考える人が、近隣國の國民感情を傷つけるようなことがあろうか?正にこうした點に配慮したからこそ、A級戦犯が合祀された後、昭和天皇は參拝をやめたのだ。これを、天皇が平和への祈りをやめたのだと言えようか?
確かに、小泉氏は政権の座に就いた時、8月15日に靖國神社を參拝すると公約した。そのことが、小泉氏自身の足かせとなっている。しかし、足かせを解くべき理由はある。民意に反する公約を改め、歴史の流れに従う勇気を示す人こそ、賢明な政治家であるからだ。
小泉氏が靖國參拝をやめるにふさわしいタイミングが來ている。まず、昭和天皇が參拝をやめた真の経緯が明らかになり、政界や民間にセンセーションを巻き起こった。これで小泉氏が參拝をやめる大義名分ができた。小泉氏は流れに身を任せるだけでよいのだ。
次に、日本の最近の世論調(diào)査がある。首相の靖國參拝に反対する人の割合は60%に達し、參拝を支持する人の割合は20%にまで落ち込んだ。參拝をやめることは、正に民意にかなうことなのだ。上は天皇の意にかない、下は國民の心にかない、縦は歴史の流れに従い、橫は近隣國との友好を修復(fù)する。小泉氏に必要なのは勇気だけだ。後世に名聲を殘すことを願う政治家として、何の否やがあろうか?
より重要なことは、小泉氏が靖國參拝をやめることが、國への貢獻になるということだ。參拝の停止により、ポスト小泉による國際情勢の打開に向けた良い雰囲気と條件が生まれる。先の小泉氏が參拝していた一方、國際的な圧力に直面しているとあっては、參拝を継続するか否か、後継者にとっては最も困惑し恐れる難題となってしまう。參拝しない場合、小泉路線から離れ、近隣國の圧力に屈服したという印象を與える。參拝する場合、國際社會での日本のイメージがさらに傷つくことになり、日本はアジアから見捨てられてしまうだろう。小泉氏がここで參拝をやめれば、後任者の足かせを解くことになり、後任者は參拝しなかった場合も前例を建前に自分を守り、右翼からの非難をかわすことができる。同時に、執(zhí)政面でもより大きな融通がもたらされ、日本が対外関係を改善し、正々堂々と國際的な舞臺に向かう上でプラスになるだろう。
小泉氏が靖國參拝を停止すれば、勇気をもって行動し、勇気をもって自らを改める賢明な政治家の印象を殘せるだろう。
「人民網(wǎng)日本語版」2006年8月11日