今でも覚えているが、ある日、會(huì)社がとっていた日本の新聞に、アメリカのキッシンジャー補(bǔ)佐官が下痢を患って避暑地で休養(yǎng)している、というニュースが載っていたが、當(dāng)時(shí)まだ未熟な青二才だった私は、このニュースに別に特別のものを感じなかった。ところがその後上司が、午前中のラジオ體操の時(shí)間にデスクで待機(jī)しているようにというので、待っていると、「キッシンジャー補(bǔ)佐官が北京を訪問」という記事を日本語(yǔ)に訳すように、といわれ、ハイ、OKとそれをこなし、別に特別なことを感じなかった。ところが、その後、屆いた日本の新聞に「頭越し外交」とかいう大きな見出しが出て、いろいろな解説記事が掲載され、やっと事の重大さを知った。今なら當(dāng)時(shí)よりはいくらか人間としても円熟しているので、大體のことは自分でも分析できるが、當(dāng)時(shí)の私は記事の翻訳の事しか頭になかったのだから、いかに未熟な人間であったか分かろう。
もちろん、この記事は英語(yǔ)、フランス語(yǔ)などにも翻訳され、それまで民間の交流で下地ができていたこともあって、中日國(guó)交回復(fù)のそもそものキッカケとなるわけである。孫平化氏のような大きな仕事はできなかったが、とにかくこの大きな歴史の流れの中で、微々たるものであっても自分なりに役割を果たしえたことを光栄に思っている昨今である。
「中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)」 2012年5月30日