中國抗戦の初期段階は、ヨーロッパ戦爭勃発時の民主諸國の最初の抵抗と同様、侵略者の強大な攻勢をくい止めることができず、一年前後の期間に、百萬平方キロに近い國土が日本軍に占領されてしまった。しかし、中國の広さ、人口の多さを考慮して、中國共産黨は早くから持久戦戦略を構築しており、その軍隊の大部分を日本軍に占領されたそれぞれの被占領地域の広大なる農村に派遣し、大衆を動員し組織して敵後方の遊撃戦を展開し、日本軍を攻撃して制肘し、これによって重大な戦略的意義をもつ敵後方戦場を切り開き、世界戦爭史上の奇跡を現出したのである。同時に、中國政府もその大本営を南京から重慶に移転し、一方では積極的に正面の抵抗を組織しながら、一方では海岸線を遠く離れた西南地區で抗戦のための強固な後方根拠地をうちたてて、持久的抗戦の準備をしたのである。こうして、持久戦戦略の指導のもとで、広大な國土、巨大な人口と數十萬將兵の英雄的犠牲を根拠にして、中國人民はその不撓不屈の精神をもって頑強に抵抗し、ついに日本ファシストが一気に中國を滅亡させようとする陰謀を頓挫させ、抗日戦爭の戦略的対峙の段階を抑えることとなった。
ファシズム國家の深刻な戦爭の脅威に直面したこの狀況で、中國の抗日戦爭は、歐米の民主諸國にとって疑いもなく重要な支持と援助であった。それは精神的な支持でもあり、物質的な支持でもあった。
第一に、中國は國力が貧弱で衰微した半植民地半封建の國で、その立ち遅れた経済と粗末な軍事裝備、さらには國際援助も不足している情況のもとで、敢然と経済面と軍事面にも実力のある日本に対抗したのである。この一事自體、全世界における正義の力に対しての鼓舞激勵であった。とくに注目すべきなのは、強大な敵に直面して、戦場で降伏する中國軍は一支隊といえどもなかったことである。中國人の粘り強い闘志は歐米の多くの記者と作家を引きつけ、かれらは中國にきて実地に取材し、中國の軍民が日本侵略軍と勇敢にたたかう業績を大量に報道している。同時に、中國人民の正義の叫びを宣伝し、日本軍が中國で犯したさまざまな兇暴殘虐な行為を暴露した。これによって歐米の平和と民主を愛する人民を激勵することとなり団結をもたらし、中國に聲援を送ってファシズム戦爭生産者との闘爭が進行したのである。正にこの重要な世論宣伝の影響を受け、多くの國のさまざまな専門家とボランティアは戦火が飛び交う中國にきてその身を中國の抗日戦爭に投じ、かれらの中の多くの人びとが中華民族の解放のため、血と生命さえもささげている。
第二に、中國人民は自からの抵抗と犠牲をもって日本ファシズムの後足を引張り、ソ連と英、米などの國がアジア地域で直面していた戦爭圧力を軽減させたのである。
日本ファシストは早くから北への進攻を畫策していた。中國の東北に覇を唱えるため、一貫して強大な隣國ソ連を最大の脅威とみなし、必然的に北方の優慮を除こうとしていたのである。まだ中日戦爭が全面的に勃発する前、日本參謀本部は北へ進攻し、ソ連に対して作戦する構想を何度も提出している。日本が1937年におこした侵華戦爭も北進のための條件をつくる目的を含んでいた。ソ連の國力を探るため、1938年7月と1939年5月、日本軍は「張鼓峰戦役」と「ノモンハン戦役」を惹起させソ連軍に対して挑戦をしている。1938年末までに日本軍は全34個師団中の31個師団を中國戦線に派兵し、そのうち長城以南には24個師団も投入していた。「張鼓峰事件」が発生した時、中國東北に駐屯していた日本の兵力はわずか6個師団でしかなく、その対面している極東ソ連軍は逆に20個師団以上もあり、雙方の武器裝備は大差なかったので、日本が侵略行動を拡大することは不可能であった。「ノモンハン事件」発生時にも、情況もあまり変わっておらず、日本関東軍の兵力は依然として極東に駐屯するソ連軍兵力の3分の1足らずに過ぎなかった。1941年のソ獨戦爭の勃発時、ドイツは日本に対してこの機をつかんで極東からソ連を挾撃するよう要求したが、日本は中國戦線から大量の部隊を引き抜いて北進攻撃にまわすことができず、この夢にまで見た重要な機會を放棄せざるを得なかった。日本がソ連に対して大規模に進攻するのが難しい情勢を見て、ソ獨戦勃発後、ソ連は極東地域から続々と50萬余人の兵力、5000余門の大砲と3300余臺の戦車を引き抜いて順調に西部の國境地帯に投入し、ドイツ軍に抵抗することができたのである。これはソ連が戦爭初期の重大な挫折から立ち直り、ついに敗北を勝利に転換しえたことに対する重要な援助であったことは明白である。
ヨーロッパ戦爭の勃発後、イギリス、フランスは大打撃を受けて実力を失ない、そのアジアにおける植民地に対する保護能力も喪失してしまった。アメリカもイギリスのドイツに対する抵抗を援助するため、極めて大きな牽制を受けており、日本の気分を損ねたくなかった。これ故に南進し、英、仏、米、蘭などの國の東南アジアと太平洋地區で支配している重要な戦略的資源を奪取することは、アジアに覇をとなえようと焦る日本ファシストにとってますます魅力的になってきた。日本はすみやかに南進する決心をし、1939年12月に4カ年計畫を提出し、中國本部の所屬する85萬の兵力を50萬に削減し、その後、次第に軍隊を引き上げ、最後に中國での戦爭を終結させ、主力作戦を集中して南方に向けようとしていた。しかし、ヨーロッパ戦爭勃発後、中國政府は長期間にわたった孤立局面から抜けきり、広範な攻勢作戦を組織しはじめ、軍事面ではできる限り民主諸國に協力するよう努力していた。中國軍は広範な冬季攻勢を展開し、武漢地區だけで何千名もの敵を殱滅した。同時期、日本軍も南寧會戦を発動していた。中國軍はこの作戦で優れて突出し、多くの軍隊が勇敢に戦い、大膽に突進し、日本軍精鋭第5師団でさえも重囲に陥り、崑崙関のあたりで20日間近くに及ぶ激戦で死傷者は5000人にも達した。この後にも著名な
「百団大戦」があった。この戦闘は敵後方の中國共産黨が指導する八路軍は発動した先例のない大規模な交通線襲撃破壊戦で、作戦期間は1940年8~10月、この襲撃破壊戦は華北、特に山西地區にあるあらゆる主要鉄道、道路、橋梁と通信施設、一部分の重要な炭鉱設備でさえもほとんど破壊してしまった。そして一連の日本軍拠點を打ち破り、守備の日本軍はかつてない手ひどい打撃を受けたのである。日本占領軍はこのため恐慌狀態がひどくなり、前線から大量の兵力を引き抜いて後方の八路軍に対処せざるを得なくなっていった。中國共産黨の指導する敵後方戦線は、徐々に敵を制肘し60%近くの侵華日本軍と90%以上の傀儡軍を引き付け、中國抗日戦爭の土臺となったのである。
正面戦線の作戦は困難であり、後方戦線でも打撃を受けているので、日本の中國駐屯軍を削減し、中日戦爭を終結し、南進して英、米などの國が支配する地區を奪取する計畫はついに水泡に帰したのである。1941年の冬、日本は最終的に太平洋戦爭を引き起こしたが、南進の陸上部隊はただの10個師団と3個混成旅団だけであり、その侵華兵力の30%にも足りなかった。中國人民の抗日戦爭は、日本の南進を制肘し、民主諸國がアジアにおいて直面している戦爭圧力の軽減に重要な役割を果たしたのである。
「チャイナネット」2005/04/26