1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、日本軍は當(dāng)時(shí)の中國(guó)の戦時(shí)首都であった重慶に対して5年間半に渡る空爆を?qū)g施した。大まかな統(tǒng)計(jì)によると、日本軍は延べ9513回、2萬(wàn)1593個(gè)の爆弾を落とした。空爆によって1萬(wàn)1889人が死亡し、1萬(wàn)4100人が負(fù)傷し、1萬(wàn)7608棟の家屋が破壊された。
1946年5月16日の夜9時(shí)ごろ、日本軍は飛行機(jī)24機(jī)を3組に分けて、3時(shí)間にわたって輪番に空爆を?qū)g施した。1萬(wàn)人あまりの市民が4500人しか収容できない防空壕に避難した。防空壕の上部が著火し、ぎゅうぎゅう詰めの狀態(tài)でさらに酸欠が加わり、大人9992人と児童1151人が死亡、重傷者は1510人に達(dá)した。これは日本軍がつくりだした、人びとを唖然とさせた重慶防空壕事件である。
「チャイナネット」2005/05/27