■雙橋
俗稱は鈅匙橋。石製のアーチ橋である世徳橋と、石製のけた橋である永安橋からなる。橋面は1つが橫、1つが縦、橋洞は1つが方形、1つが円形で、古代の人びとが使用した鈅匙(かぎ)のような姿をしていることから、當地の人は「鈅匙橋」と呼んでいる。この2基の石橋は明代萬暦年間(1573~1619年)の建造。世徳橋は長さが16メートル、幅3メートル、徑間5.9メートル。永安橋は長さが13.3メートル、幅2.4メートル、徑間3.5メートル。世徳橋は市の南北を流れる川に架かっており、東端に石段があって、そのまま路地へと行ける。永安橋は銀子浜口にけたを水平に架けたもので、小舟しか通り抜けできない。1984年、在米中國人畫家の陳逸飛氏が雙橋を素材に「故郷の回顧」と題する油絵を完成。他の多くの作品とともにニューヨークの石油會社社長、アーマンド?ハマー氏所有の畫廊に展示された。その年の11月、中國を訪問したハマー氏は高値で同作品を購入するとともに鄧小平氏に寄贈。この油絵が國連の初日カバー図案に採用されたことで、周荘の名は內外に知られるようになった。
■富安橋
座橋と樓が一體となった獨特の建築物。橋身は花崗巖で精巧に造られ、欄干と階段は武康石を積み重ねたもので、橋面に吉祥の浮き彫り文様が刻されている。橋の端に樓閣が立ち、気勢は非凡だ。橋と樓が融合し互いに映して趣があり、まさに江南地方の橋樓の最高傑作、古鎮?周荘の象徴でもある。
■張庁
數少ない明代建築物の1つで、江蘇省の重要文化財。數年かけて修築が行われ、昔の姿が蘇った。資産家の邸宅で、500年以上も風雪にさらされてきたが、今でも気風ある姿を見せている。張庁には前後合わせて6つの庭がある。部屋は約70室。敷地面積は1800平方メートル余り。門を入ると両側に廂房樓が並び、一階と二階に質樸で典雅な長短の窓が取り付けられている。高大で光の通った玉燕堂が主庁(母屋の居間)。太くて大きな柱が楠木の土臺の上に屹立しているのが、明代住宅の遺風だが、極めて珍しい建築物だ。屋敷を通り抜ける小さな川。舟を合流させたり、舟の向きを変更したりするため、川の中段に約3.3メートル四方の池が設けられている。「舟が家を過ぎゆく」情景が浮かんでくるようだ。
■瀋庁
周荘には一千近い民居があるが、うち明清時代と民國時代のものが60%以上も保存されている。邸宅は約百、レンガ彫りの門樓は60余り、また通りをまたぐ「騎樓」や水壁門なども江南水郷地帯の典型的な建造物だ。なかでも最も代表的なのが瀋庁。富安橋東堍の南側、南市通りにある。南向きの造りで、庭は7つ、門樓は5つ。部屋は大小合わせて100室余りあり、100メートル続く中軸線の両側に並んでいる。敷地面積は約2000平方メートル。江蘇省の重要文化財。清代乾隆七年(1742)に造られた。瀋庁は3つの部分からなる。前部は、舟を止めたり、洗濯をしたりするための船著場と水壁門になっている。江南水郷地帯特有の建造物。中部は「壁門樓」と「茶庁」「正庁」。賓客を送迎したり、冠婚葬祭などの大切な行事や會議を行ったりするところ。後部は「大堂樓」「小堂樓」「後庁屋」になっていて、起居する場所。すべての部屋が前方が庁、後方が堂(広間)の典型的な構造になっている。
■迷樓
往時の名は「徳記酒店(飲食店)」。店主だった李徳夫は鎮江の出身。清代光緒年間の末、家族を伴って周荘に移り住んだ。割烹に長じていたので飲食店を開業したという。
■全福寺
広く名の知れた古剎。周荘とともに歴史を歩んできた。それまでは負豊里と呼ばれていたが、郷紳(官吏を退職し帰郷した有力者)の周迪功朗が北宋時代の元佑元年(1086)、13ヘクタールの荘田を全福寺に寄進。その恩と徳を強く感じた地元の人が周荘に改めたという。全福寺はそれぞれの時代に拡張を続け、江南地方の名剎となった。庭園は合わせて5つ。主體建築の大雄寶殿は壯大で、殿內には高さ約10メートルの如來大仏があぐらをかいて巍然と座している。手のひらは人が一人橫たえられるほど。
「チャイナネット」2005年7月