福建省の崇武古城は泉州灣と湄州灣に挾まれた崇武半島一帯に位置しており、明の洪武20年(1387年)に築造されたものである。倭寇による深刻な撹亂を取り締まるため、明王朝は、北は山東省の登萊から南は広東省の崖海まで、海岸沿いに「萬里の長城」と匹敵できる萬里の沿海防御施設を築造した。600余年後の今日、當時の防御施設のほとんどは、長い歳月と何回かの戦火にさらされて破壊されたが、崇武古城だけはほぼ往時のままの姿で海辺に建っており、中國の軍事史を研究する上での重要な実物資料となっている。
古城はすべて花崗巖で築造され、城壁は4つの丘の上に築造され、形はまるではすの花のようである。防御のための構築物として、城門、砲臺などの合理的な配置は高く評価されている。
崇武古城が築造される前の元朝末年の戦亂の被害で、わずか10世帯だけが生き殘った。城が築造されてから、他の省?県から1000人余りの兵士や官吏がこの地に派遣されて定住することになり、ユニークな習俗が形成されるに至ったのである。それらの習俗の中で、「恵安女」と呼ばれる地元の女性たちの服飾は中國の人々に最も親しまれている。
寫真は崇武古城の城門。軍事用の築造物として、古城はすべて長方形の花崗巖で作られ、裝飾の跡は城門の門樓のアーチ形の屋根以外、ほとんど目に付かない。この素樸さは、古城の雄大的で堅固なイメージをいっそう引き立てている。
寫真は古城の城壁。
寫真は古城の砲臺。
寫真はユニークな伝統的な服飾を身にまとった「恵安女」。容姿が美しいことで有名な恵安女は、出稼ぎや漁師を業とする夫にかわって家事や畑仕事を全部自分たちで受け持ったので、その勤勉さも広く知られている。
「チャイナネット」2006年1月
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