揚州に行けば、痩西湖に行かないわけにはいかない。
痩西湖は揚州の西郊にある。隋唐時代には、運河に流入する水路だった。この名は痩せて美しい形狀から付けられた。
その美しさは曲がりくねった姿にある。杭州の西湖と比較すれば、西湖のほうは豊満で秀麗、おっとりとした若い婦人のようであり、痩西湖のほうはすらりとして清々しく麗しい、しとやかな淑女のようである。5キロの痩西湖では、長堤や徐園、小金山、吹臺、月観、五亭橋、白塔などが名所。痩西湖は“痩”がその特徴だ。湖面はときに広くなり、ときに狹くなり、両岸には林木が繁茂し、庭園の古めかしい建築物が様々な姿をみせ、その間を舟が行き交い、景色は絶えず変化する。思わずその光景に引き込まれてしまうほどだ。
痩西湖をめぐる景勝は、わが國の湖上庭園の代表格と言っていいだろう。古典的な庭園群は南の秀麗さと北の雄大さが一體となっていて、その組み合わせが実に妙で、互いに呼応しあって、痩西湖を核に共同の空間を形成している。景色の外に景色が、庭園の中に庭園があるのだ。その蕓術(shù)的境地から歴史上、二十四景として知られるようになった。しとやかに折れて流れる紺碧の水、連なる巻き石の洞の美しさ、西園の曲水、虹のかかる橋の素晴らしさ、長堤の春の柳、岸辺に薫る風(fēng)、橋にたなびく煙雨などが、景色の美しい天然の立體的な山水絵巻を描き出している。なかでも小金山や五亭橋、二十四橋はまさに神業(yè)だ。
痩西湖の景勝は早くから人びとを引きつけてきた。清代の劉大観は「杭州は湖と山で勝り、蘇州は商家で勝り、揚州は園や亭で勝る」と記している。同じ清代の沈復(fù)は『浮生六記』のなかで、「その妙は十?dāng)?shù)の園と亭が一つに合體され、山へと連なり、気勢が貫かれているところにある」と絶賛した。李白や劉禹錫、白居易、杜牧、歐陽修、蘇軾、王漁洋、蒲松齢、孔尚任、呉敬梓、郁達(dá)夫、朱自清など歴史上の有名な文化人もこの地に留まり、人口に膾炙する數(shù)々の作品を殘した。「煙花の三月、揚州に下る」や「園林の多くはこれ宅なり、車馬は船に少なし」「二十四橋の明月の夜、玉人は何処で簫を吹くことを教える」「珠簾十里、春風(fēng)を巻く」「緑楊城郭はこれ揚州なり」……。數(shù)え切れないほどの名言や佳句は長い年月が過ぎても広く伝わり、痩西湖に眩いばかりの濃淡の色彩を添えている。
長い歴史と豊かな文化、秀麗で典雅な自然の風(fēng)韻をもつ痩西湖の景勝の地は、內(nèi)外から多くの人が訪れる観光地となっている。
「チャイナネット」2006年4月