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釣魚島問題について(一) |
発信時間: 2009-02-04 | チャイナネット |
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1996年10月18日付 「人民日報」第8面 作者:鐘厳 釣魚島(日本名:尖閣諸島)問題は、中日間で未解決の領土問題である。本文では、歴史や國際法の角度から釣魚島の主権問題を論じる。 一、 釣魚島は古來より中國の領土 釣魚島とその周辺の島々は、臺灣省基隆市の北東約92海里(1海里=1.852キロ)にある。日本の琉球列島からは約73海里の距離にあるが、深い海溝で隔てられている。釣魚島列島は釣魚島、黃尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島および3つの小さなサンゴ礁からなり、総面積は約6.3平方キロメートル。その中で最大の釣魚島は面積4.3平方キロメートルで、海抜は約362メートル。同島は、南東側が漁具の「やす(魚かぎ)」のように切り立った巖壁で、東側には巖肌が塔のように聳えており、長い間無人島となっている。 中國では早くも明代の歴史文獻に釣魚島が登場する。日本は釣魚島を沖縄県の管轄としているが、その沖縄県は今から約125年前は獨立した琉球國であった。1871年の日本による琉球併合の前から、中國は琉球國と約500年にわたる友好交流の歴史があり、最初に釣魚島などの島を発見、命名している。明の永楽元年(1403年)の書物『順風相送』には「釣魚嶼」と記載されている。 中國は明の太祖の時代から琉球國へ冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使?陳侃の『使琉球録』には、彼らが琉球國の使者と共に琉球へ向かう様子が次のように記されている。 十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黃毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一晝夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に屬するもので、夷の人は舟上で歌い踴り、故郷への到著を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、當時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踴る」という、帰還の喜びがありありと描寫されており、當時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自國に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黃尾嶼、赤尾嶼などは元來琉球國には屬さないことになる。 明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海図編』の「沿海山沙図」には、福建省の羅源県、寧徳県沿海の島々に「釣魚嶼」、「黃尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中國の領土として、當時の防衛対象區域に組み込まれていたことがわかる。 その後、1562年の冊封使?郭儒霖の『重編使琉球録』では次のように書かれている。 「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる」とある。この文章は、當時の中國が釣魚島列島の中でも琉球國に最も近い赤嶼、すなわち現在の赤尾嶼を琉球國との境界としていたことを、よりはっきりと証明している。 清代に入り、中國と琉球の境界が釣魚島南方の海溝一帯であることは、中國の航海家の常識となっていた。清代の第2次冊封使?汪楫は1683年に琉球へ派遣され『使琉球雑録』を記した。同第5巻では、釣魚島、赤尾嶼を通り過ぎ、海難を防ぐための祭祀を行ったとき、船上の人が、舟が通り過ぎた海溝(當時は「過郊」あるいは「過溝」と呼ばれていた)が「中國と外國との境界」であることを伝えたという。その後、1756年に琉球へ派遣された周煌も、著書の『琉球國志略』第16巻で汪楫と同行者の問答に觸れ、「『溝』とは何かを問うたところ、『中國と外國の境界』との答えだった」と記すとともに、「黒水溝」とは「みん(門に蟲、福建省)との洋上の境界」であり、海溝を隔てて赤尾嶼から西の釣魚島などの島々はすべて中國の領土であることを裏付けている。 1719年に琉球へ派遣された清朝?康熙帝時代(1661~1722年)の冊封使?徐葆光の『中山傳信録』は、當時の日本や琉球へ非常に大きな影響を與えた。同書は徐葆光が琉球で研究に専念し、琉球の地理學者や王朝の執政官らとの切磋琢磨の末に書き記したもので、大変緻密で信用度も高い。同書は和訳され、日本人が琉球を理解する重要な資料となった。同書による琉球への冊封使派遣ルートは、福州から花瓶、彭佳、釣魚の島々の北側を経て赤尾嶼から姑米山へと至る。同書では、姑米山は「琉球西南方界上鎮山」、つまり琉球の西南境界にある鎮守の山であるという注がついており、現在の八重山群島にある與那國島を「琉球南西の最果ての境界」としている。 上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中國の領土としてきた。甲午戦爭(日清戦爭)の1年前にあたる清代光緒19年(1893年)10月、慈禧太后(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣懐に與え、薬剤の採取地とする詔書を発した。詔書には「盛宣懐が獻上した丸薬は効果が非常に高い。上奏によると、薬の原料は臺灣沖にある釣魚臺小島のものである。この霊薬は海上で産出され、効能は本土のものよりも優れている。聞くところでは、汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助けてきた。これはとりわけ稱賛に値することである。よって釣魚臺、黃尾嶼、赤嶼の3島を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐にあたえる」と書かれている。(2) 釣魚島が明代から中國の領土であったとする主張は、中國政府の立場のほか、日本の著名な歴史學者である井上清教授も、厳格かつ真剣な考証の結果導いた結論でもある。井上清氏は1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を発表。同氏は歴史學者として文獻を調査し、釣魚島は日本が不法に占拠する前も「無主地」ではなく、中國の領土であったと斷定している。井上氏が言うとおり、日本の明治維新(1868年~)前には、日本や琉球では、中國文獻以外で釣魚島を言及するものは、1つも見つかっていない。日本で釣魚島が文書に始めて登場するのは、1785年に林子平が著した『三國通覧図説』に添付された「琉球三省と三十六島」の図である。しかし、林子平も清の徐葆光が著した『中山傳信録』を參考に、中國名である「釣魚臺」を島名としており、さらに釣魚島と福建省、浙江省を同じ桃色で描いている。一方、久米島は琉球と同じ黃色で示されている。徐葆光は、久米島を「琉球西南方界上鎮山(琉球の西南端にある鎮守の山)」としている。新井君美が1719年に発表した『南島志』には、琉球管轄の36の島々が記載されているが、その中には釣魚島がなく、1875年に出版された『府県改正大日本全図』にも釣魚島はない。さらに、清の北洋大臣?李鴻章が1879年に日本と琉球の帰屬を交渉した際、中日両國が琉球は36の島でできていると確認しており、そこには釣魚島などの島々は含まれていない。 向象賢(羽地朝秀)が1650年に発表した、琉球の歴史書『琉球國中山世鑑』もまた、明の冊封使?陳侃の記述を採用しており、久米島は琉球の領土であるが、赤嶼およびこれ以西は琉球の領土ではないとしている。向象賢は當時、琉球の摂政として最も権威のある學者で、その視點は當時の琉球統治者を代表するものである。その後、琉球學者の程順則が1708年に記した『指南広義』では、姑米山(久米島)を「琉球西南界上之鎮山」と稱した。つまり國境を鎮守するという意味である。蔡溫が1726年に著した『改定中山世譜』などの歴史書でも、琉球に釣魚島は含まれないと書かれている。琉球國が同年康熙帝に獻上した『中山世譜』にも釣魚島などの島はない。日本の元國際貿易促進協會常任理事の高橋莊五郎氏は、「釣魚島などの島名は中國が先につけている」としており、「そのうち黃尾嶼、赤尾嶼などの固有名稱は明らかに中國名で、臺灣に屬する花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼などと同じだ」としている。日本には「嶼」という島名がなく、一方で福建省、澎湖列島、臺灣省には「嶼」と名づけられた島が29あり、古代地図となるとさらに多い。赤尾嶼は中國の古書には「赤嶼」と書かれているが、これは同島にある巖石と関係しており、島の巖石の色から赤嶼や赤尾嶼と名づけたものと見られる。 日本人の中には、中國で出版された地図にも「尖閣列島」が使用され、「釣魚島」と表記されてないことを理由に、日本の領有権を主張する人がいる。中國のこれまでの地図では、清代に釣魚島が「釣魚臺」と表記され、現在でも臺灣で引き続き用いられている。日本軍の占領時代に出版された地図の上では、釣魚島は「尖閣列島」への改名を迫られたか、はっきりと表記されていないかである。例えば、當時の上海『申報』が出版した中國『新地図』がこのとおりである。戦後および中華人民共和國成立後の一時期に印刷された中國地図も、一部で引き続き「尖閣列島」の表記が使われるなどの影響を受けている。『中國分省地図』の1956年の第1版と1962年の第2版には、最後に「抗戦時期または解放前の申報の地図を參考にした」との説明が添えられている。中國地図における釣魚島の表記不揃いになってしまったのは、上述の日本軍による中國占領という歴史的原因があったからこそである。これは近代中國が半植民地となった歴史の傷跡でこそあれ、釣魚島なの島に対する日本の領有権を証明しうるものでは決してない。 日本の地図や公文書ではかつて、島の中國名を正式に使用していたことがある。統計によると、1935年から1970年にかけて日本で出版された地図21種類および大百科事典の3分の2に「尖閣列島」の記載がなく、「魚釣島」と記載しているものもあった。日本では釣魚島に屬する島々の呼び方は混亂している。日本が最初に呼ぶようになった「尖閣列島」は、沖縄師範學校の黒田巖恒教諭が1900年5月、イギリス人が呼んでいた「尖頭諸島」から名づけたという。日本政府は1921年7月25日、同島の「國有地」編入に際して、赤尾嶼を「大正島」と改稱したが、日本政府はこの名稱を長い間正式に使用しなかった。第2次世界大戦後に日本が連合國司令部に提出した、海上保安庁水路部の海図は、依然として中國が命名した黃尾嶼、赤尾嶼を使用している。米軍占領下の沖縄県が1969年に発した正式文書や掲示でも、黃尾嶼、赤尾嶼などの島名が使用されている。1969年5月に釣魚島海域に石油が埋蔵されているとの情報が流れると、沖縄県は石油會社から相次ぐ調査申請を受け、同県石垣市長の命令で釣魚島に目印となる杭を建設、黃尾嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大正島」と再度改稱した。 しかし、これら島々の名稱は勅令による命名を経ていないため、1972年以前の日本政府は各島の島名を出して領有権を主張せず、漠然と「尖閣列島」または「尖閣群島」と呼んでいた。今日に至るまで、これらの島に中國名を使用している日本地図も依然存在しており、平凡社が1984年に出版した『世界大地図帳』には、はっきり漢字と日本語読みで「魚釣島(うおつりじま)」、「黃尾嶼(こうびしょ)」、「赤尾嶼(せきびしょ)」と表記されている。また、現在日本政府や沖縄県の正式文書でも黃尾嶼、赤尾嶼という呼稱を使用している。防衛庁が1995年2月に衆議院予算委員會に提出した「防衛庁資料」でも、中國名の黃尾嶼、赤尾嶼が使用されている。(3) 注: (1) 陳侃:『使琉球録』 25ページ (2)『釣魚臺群島資料』 香港『明報月刊』1979年5月 87ページ (3)日本『政治経済総覧』1996年、『前衛』月刊5月臨時増刊、109ページ 「人民網日本語版」2004年4月9日 |
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