蘇州庭園式の公館の中で、中支派遣軍総司令官松井石根は命令を発していた。「南京は支那の首都である。南京の占領(lǐng)は一つの國際的事件である。故に、必ずや周到なる準(zhǔn)備をなし、よって皇國の御稜威を発揚し、支那をして畏服せしめるよう!」
この「支那をして畏服せしむるべし」との命令は、目を血走らせた日本兵にとっては、一服の興奮剤にほかならない。南京攻略における日本側(cè)の死者は上海攻略戦の9115人よりさらに3000人多い。松井石根は四カ月もたたないうちに2萬1300人の部下を黃泉に送り込んだことになる。
絶対的服従と絶対的自信、この二つは日本軍の特徴だといわれる。
第6師団谷壽夫配下の中隊長、田中軍吉大尉は軍刀を振りかざした。彼はまるで木を伐り倒すか草でも刈り取るように、中國人300人を切り殺したのである。この軍刀の寫真は中國人民の戦利品となり、日本侵略軍の南京大虐殺を証する動かぬ証拠となった。
田中軍吉と同様、日本軍で「勇士」と稱されるのが、第16師団中島配下の二人の少尉である。この二人こそ世界を震撼させた「百人斬り」競爭をやってのけた殺人鬼である。これは『東京日日新聞』の記者が撮影したもので、富山大隊の副官野田巖(右)と砲兵小隊長向井敏明である。1937年12月14日の同紙に掲載され、「百人斬り<超記録> 向井106対105野田 両少尉さらに延長戦」と題する記事である。
「紫金山麓にて12日淺海、鈴木両特派員発」 南京入りまで「百人斬り」競爭という珍競爭をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巖両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに106対105というレコードを作って、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おい、おれは105だが貴様は?」
向井「おれは106だ!」
……両少尉は<アハハハ>
結(jié)局いつまでにいずれが先に百人斬ったか、これは不問。結(jié)局「じゃドロンゲームといたそう、だが改めて150人はどうじゃ」とたちまち意見一致して、11日からいよいよ150斬りがはじまった。……
記事によれば、向井と野田は南京郊外の句容からこの人斬り競爭を始めたという。日曜の一日で、向井が89人、野田が78人を斬った。紫金山のふもとまで來たとき、向井の軍刀は切っ先がちょっとかけてしまった、というのも、彼はある中國人を斬ったとき、鉄かぶとをかぶったままの頭の上から刀を振り下ろし、體ごとまっ二つにしてしまったからである。
「チャイナネット」資料