「盧溝橋事変で最初に発砲したのは一體誰(shuí)か?」―― 中國(guó)人民抗日戦爭(zhēng)記念館の従業(yè)員は、日本人來(lái)館者からこの質(zhì)問(wèn)をいつも耳にする。
中國(guó)文史出版社が1987年に刊行した今井武夫氏の回想録(中國(guó)版)の11ページには「1937年の5~6月の間、華北で間もなく何かが起きると東京で広くささやかれていた」「政界の消息筋の間では『7月7日夜に華北で柳條溝のような事件が再び起きる』との情報(bào)がひそかに伝わっていた」とある。これは、盧溝橋事変が舊日本軍の畫(huà)策であることを非常に明確に示すものだ。
盧溝橋事変で最初に発砲したのは一體誰(shuí)か――。事変勃発後7年の1944年、その発動(dòng)を指揮した最高長(zhǎng)官の牟田口第1連隊(duì)長(zhǎng)(このとき中將に昇進(jìn))はビルマ侵略(インパール作戦)の第15軍司令官に任命された。この時(shí)すでに牟田口中將は日本の敗戦局面をはっきりと認(rèn)識(shí)し、事変當(dāng)時(shí)を振り返り「大東亜戦爭(zhēng)はいわばわしの責(zé)任だ。盧溝橋で第一発を撃って戦爭(zhēng)を起こしたのはわしだから、わしがこの戦爭(zhēng)のかたをつけねばならんと思うておる」と話している(児島襄「太平洋戦爭(zhēng)」1975年)。牟田口中將はまた「私が盧溝橋事件を引き起こした。後に事件はさらに拡大し、終いには今回の大東亜戦爭(zhēng)に発展した」と記述している(小俁行男「日本隨軍記者記聞録――太平洋戦爭(zhēng)」世界知識(shí)出版社1988年、中國(guó)版)。牟田口中將の率いる部隊(duì)が最初に中國(guó)軍に発砲した。これは揺るぎない事実だ。だが、牟田口中將が大東亜戦爭(zhēng)の勃発を彼個(gè)人の責(zé)任としているのは、歴史と符合しない。中國(guó)侵略戦爭(zhēng)の発動(dòng)は、日本がすでに軍事侵略の計(jì)畫(huà)に入れていたことだからだ。
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2005年7月18日