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片山恭一氏:愛という感情は千年前と変わっていない

片山恭一氏:愛という感情は千年前と変わっていない。

タグ: 世界の中心で、愛をさけぶ,片山恭一,青春小説,若い人の戀愛

発信時(shí)間: 2010-10-12 15:32:22 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

「日本には戀人たちが生死の別れをするという話で戀愛を描く小説が多いが、これは日本の小説が愛情を表現(xiàn)する文化の一つなのか」という質(zhì)問について、「近代文學(xué)では、日本に限らずヨーロッパの文學(xué)などでも、『戀人との死別』を描く小説は多い。日本の源氏物語でも、主人公の光源氏と戀人の死別が大きなテーマになっているが、源氏物語から今まで、日本にそのような文學(xué)の伝統(tǒng)があるというわけではない」と片山さん。また、「純愛文化の発展のプロセスや変化」について、「私たちの生活は千年前と比べるとまったく変わっているが、純粋な愛は千年前、二千年前と基本的に変わっていない。私たちの精神世界、心の中にはいろいろな新しいもの、古いものが折り重なっているが、純愛文學(xué)は古い人間の不変的な感情で、私たちははそういう気持ちを描こうとしている」と語った。

「相手が病気で亡くなるという戀愛小説は、日本と韓國(guó)で読者たちの捉え方がまったく異なる。日本の小説では、相手が病気にかかって亡くなることを知ってから、韓國(guó)の主人公と同様に悲しむが、將來の生活や人生に勇敢に、積極に立ち向かう。この二つの違いが現(xiàn)れるのはなぜか、日本人の生死観によるものか」という質(zhì)問について、片山さんは「私は小説の中で、大切な人が亡くなるということを通して、ある意味で主人公を成長(zhǎng)させたいと考えている。成長(zhǎng)と言えないまでも、內(nèi)面的に深みが出てきたり、広がりや奧行きが出てきたり、陰影が出てきたりすることなどを描きたい。韓國(guó)人の生死観はよく分からないが、日本の現(xiàn)代文學(xué)の中で、『死』というのは非常に強(qiáng)敵なものになっている。『死んでしまう』とは『無になる』ということで、現(xiàn)代の日本人は來世、天國(guó)、魂など科學(xué)的なことを信じていない人がほとんどで、大切な人を失っても、自分の殘る人生に賭けるしかないという考えがある」と話した。

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