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劉徳有會長、大平正芳氏と中日関係を語る |
発信時間: 2009-10-26 | チャイナネット |
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中日航空協(xié)定の締結(jié)に一人で北京を訪問
中日関係の発展に大きくご貢獻をなされた大平正芳先生を偲ぶとき、中日航空協(xié)定の締結(jié)に觸れないわけには參りません。この協(xié)定の締結(jié)によって、今まで中日間の往來はすべて香港経由で遠回りし、二三日も時間をかけなければならない狀態(tài)が一変して、東京―北京間をわずか三時間ほどで直行できるようになり、両國の人民に大きな便利をもたらし、今日にいたるもその恩恵をみんながうけております。 たしか1973年末のことだったと記憶していますが、日本のメディアは大平外相が正月の休みを利用してお一人で北京を訪問するこニュースを報道しました。當時の見方は二つに分かれていました。一つは、大平外相が自ら言われているように特別な目的など無くただ個人的な旅行であるという見方、もう一つは、當時の中日関係で懸案になっていた航空協(xié)定問題の解決のためであろうと。當初、私はうわべの現(xiàn)象に惑わされ、休暇の可能性も除外できないと思っていました。しかし、冷靜に考えてみると、たしかに大平外相はお一人で中國に行こうとしているものの、一國の外相が何の目的もなしに外國を訪問することはやはり不自然であり、航空協(xié)定を話し合う可能性がきわめて大きい、と次第に思うようになりました。 予想通り、大平外相の北京行きはやはり中日航空協(xié)定のためでした。ある意味で、大平外相にとって中日航空協(xié)定の締結(jié)は、中日國交正常化よりも厄介な問題でありました。問題は、北京航路を開通するには、今までの日臺航路をどのように処理するかが焦點でした。日本側(cè)として、日臺航路を放棄したくない理由が二つありました。一つは、自民黨內(nèi)の親臺派グループへの配慮です。自民黨內(nèi)の臺灣擁立派は、日中國交の樹立は臺灣の切り捨てであり、もともと反対でしたが、正常化がすでに既成の事実になってからも、巻き返しのチャンスを狙い、航空協(xié)定締結(jié)反対を通じて田中內(nèi)閣を倒そうと目論んでいたようです。今ひとつの原因は、日本の経済利益であることは言うまでもありません。日本の航空會社にとって、日臺航路はまさにドル箱であり、失い難いものでした。 北京に到著した大平外相と中國側(cè)との話し合いの中心は、どのようにして「中日共同聲明」に抵觸せずに日臺間の民間往來を維持するか、でした。大平外相が提出した案は、一、日中空路をナショナル?キャリア(國を代表する航空路線)とし、臺灣との空路をローカル?キャリア(地域的航空路線)とする。二、これに伴い、「中華航空會社」については、名稱、機體のマーク、日本での使用空港などについて、「二つの中國」の恐れが生じないよう、日本側(cè)で執(zhí)りうる範囲の適切な処置をとる。三、JALは日中空路に就航し、臺灣とは、別會社で運営する、などでした。 中國側(cè)は大平外相の案にほぼ同意し、その具體案については、周総理が「中華航空會社の後ろに“(臺灣)”の文字を入れ、機體上のマークは國旗を代表しないただの商標として使う」という名案をを出して、毛主席の賛同を得たといわれています。大平外相は中國訪問の結(jié)果に満足し、準備期間を経て、4月20日、北京において中日両國の間で航空協(xié)定が正式に調(diào)印されました。案の定、臺灣當局は日臺航路を斷絶すると言って、日本を脅かし、メンツを保とうとしました。大平外相は、日本の親臺灣派によって圧力を加えられ、苦しい立場に立たされたことは想像に難くありません。この年の國會では、自民黨の一部の右派の議員が一斉に大平外相の攻撃に出、大平外相のやり方は日臺航空路線を斷絶させるものであり、日本の國益を失わせ、臺灣への信義を裏切ったとまで言って難癖をつけましたが、答弁を迫られた大平外相は、毎回、頑強に立ち向かい、間違いであったとか、國益を損ねたとは決して認めませんでした。このような情景が連日テレビで報道され、その屈強な態(tài)度に、私も含めて多くの人々が心を打たれました。 肖向前氏はこのことについて、回顧録のなかで、「大平外相が、國益を損なったとか、間違いをしたと言うような非難を斷固否定したニュースは、毎日テレビを通じて流されていた。畫面の大平外相は正直者で、人々に落ち著いた良い印象を與えた。當時、時々藤山愛一郎先生に會って政治や情勢の話をしていたが、藤山先生は、國會質(zhì)疑の時の大平氏はとても“すばらしい”。藤山自身も含めた明治維新以降の外相の中で、大平氏は抜群で、日中國交の樹立と日中関係の発展に関して、負うべき責任をすべて勇敢に負った、と賞賛した」と書いております。 |
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