日本ボランティアが記述する中國慰安婦史(1)「この女は穢れている」
日本ボランティアが記述する中國慰安婦史(2)
「50年以上ぶりに日本人男性の聲を聞いた彼女は、全身を震わせていました」
中國に來たばかりの日本人ボランティアにとっては、最初、老婆たちの心を開くなどは言うまでもなく、老婆たちの周囲に近づくことでさえも、ほぼ不可能なことであった。石田米子氏は、初めて高銀娥に會(huì)ったときのことを今でも覚えている。
「50年以上ぶりに日本人男性の聲を聞いた彼女は、全身が震えていました。私たちがどんなに『彼らは私たちのスタッフです、決して悪い人ではありません』と言っても、おばあさんはずっと震えていたのです、失神もしたようでした……このような光景は初めてで、ひどく胸を衝かれました。」
やがて、石田米子が前に進(jìn)み出て、手を伸ばして高銀娥を抱きしめた。彼女は老婆を抱きしめながら、「悪い人ではありません」と繰り返しささやいた。老婆はそれでようやく、少しずつ落ち著いてきた。
「インタビュー時(shí)は毎回、必ず家族がついているのです。」石田米子は調(diào)査ノートにこう記してある。「最初は彼女の夫、もしくは娘?養(yǎng)女?孫娘?めい?義理の兄?義理の親戚が一緒に座って話をしていました。私たちの仲が親しくなるにつれて、2回目もしくは3回目から、インタビュー時(shí)には、男性の親戚の立會(huì)いをお斷りするようになりました。」
彼女たちのインタビュー調(diào)査で、高銀娥は「一緒に捕らえられた女性の顔を、馬が引く大八車に乗せられたときのことを、扉の外で番號(hào)札を手にして並んでいる日本兵がいたことを覚えている、でも自分がどこに閉じ込められていたのかはわからない」と語っている。
「彼女たちは過度の恐怖とおそれに曬されていたのです、毎日このような狀態(tài)でした」、石田氏は肩をすぼめて、両手を震わせて頭を抱える動(dòng)作を模倣してみせた。「いつも、目の前の10m範(fàn)囲內(nèi)の出來事しか知ることができなかったのです。」
「多くの老婆たちが、これは人生最大の辱めであり、恥ずべきことだと思っています。村では人から軽蔑され、自分自身も人様に顔向けができない。私たちは彼女たちに繰り返しこう伝えています、このようなことが起きたのはあなたの罪でも過ちでもない、と。」石田米子は言った。
(続く)
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」 2010年4月15日