12月22日に配信された日本僑報電子週刊954號に、第6回中國人の日本語作文コンクール最優秀賞(日本大使賞)受賞作文が紹介された。西安交通大學日本語學部學生関欣さんが書いた「幸福の贈り物」が最優秀賞に受賞、18日に在中國日本大使館で開催された表彰式に置いて、丹羽宇一郎中國大使から「日本大使賞」賞狀が授與された。作文は以下の通りである。
「幸福の贈り物」
関 欣(西安交通大學)
丹羽宇一郎中國大使から関さんに「日本大使賞」を授與。段躍中撮影
我が家の機の上には、黒いテープレコーダーがいつも置かれている。その表面に書かれた日本語の文字はもうすっかりかすれてしまっている。このテープレコーダーは、八〇年代に父が若いころ、技術員として日本に派遣された時に買ったものだ。當時の中國は技術力が低くて、家庭用テープレコーダーはまったく普及していなかった。だから、父が日本で買ってきたナショナルのテープレコーダーは家族を驚かせた。そして、その時は思いもしなかったが、それは私とおじいさんとの距離を大いに縮めてくれたのである。
一九八五年、父は日本の愛知県に一年間派遣されることになった。想像もつかないほど遠いところへ息子が行ってしまって、おじいさんは毎日心配していた。田舎のおじいさんの家では電話の狀態が悪かったので、息子の聲を聞くことはできず、ただ一ヶ月に一度手紙を受け取るだけだった。その頃、おばあさんが急逝したために、おじいさんは一人暮らしになり、寂しい毎日を送っていた。父も日本で父親のことを心配していた。そんな狀態で一年が過ぎて、父は無事帰國した。父は何を思ったのか、おじいさんのためにテープレコーダーをお土産に買ってきたのである。
テープレコーダーの中にはテープが入っていた。それには、父が日本の生活で出會った面白い出來事や印象的な人についての話や、心のうちに秘めていたおじいさんに言いたい話などが吹き込まれていた。その後、おじいさんはテープレコーダーの使い方を覚えて、息子のテープを繰り返し繰り返し聞いて、手元から離す暇がないほど気に入ったのである。テープレコーダーはそれからも大活躍して、一年後に孫娘の私が生まれた時も、おじいさんは嬉しくなって私の泣き聲や笑い聲を録音した。そんな平和な田舎での生活は、私が六歳になるまで続いた。その後、私は両親と西安市の実家で暮らすことになったが、田舎のおじいさんとはあまり會えなくなってしまった。おじいさんは寂しくなると、いつもぴかぴかに磨き上げたテープレコーダーの父の聲と六歳まで録りためた私の聲を聞いて、懐かしんでいたそうだ。
しかし、私が中學一年生の時、おじいさんは病気でなくなってしまった。そして、テープレコーダーは私が譲り受けることになった。葬儀が落ち著いた頃、私はテープレコーダーを聞いてみた。三歳の時の私の聲、六歳の時の私の歌聲など、どれもこれも懐かしい思い出だ。テープが終わったので、スイッチを切ろうとしたら、突然、おじいさんの聲が流れ始めた。「シンちゃんにとても會いたいなあ。シンちゃんは勉強が忙しいからしかたないね。シンちゃんがそばにいなくなって、おじいさんはつらくてたまらなかったよ。でも、このテープレコーダーがあってよかった。父さんにありがとうって伝えてね???」その溫かい聲を聞いていたら、涙がどうしても止まらなくなって、ワアワアと大聲で泣き出した。おじいさんが生きているうちに、もっと會いに行けばよかったと後悔してやまなかった。
しかし、今の私は幸いだと思っている。おじいさんはもう戻ってはこないが、おじいさんの聲、孫娘への愛はこの小さなテープレコーダーの中で永遠に保存される。これを聞くと、おじいさんがいつも私の近くにいるような気がする。テープレコーダーは、私たちにいつでも家族の愛がそばにあるという幸福感を與えてくれた。ナショナルの創業者、松下幸之助は「利益」より「人々の生活を潤すこと、人々の生活向上に奉仕すること」が企業活動で一番重要なことだと述べている。生活のゆとりを與えて家庭に幸福をもたらすのに、日本のさまざまな製品は世界中で貢獻してきた。父の影響を受けた私は、今日本語を學習しているが、將來、日中の人々に幸福をもたらす友好の架け橋になりたいと思っている。それが、テープレコーダーのお返しになれば幸いである。
(日本僑報社『メイドインジャパンと中國人の生活』より転載)
?中國網日本語版(チャイナネット)? 2010年12月22日