父を殺した敵が「死者を祭る」ため訪れたとき、張學良にはその敵を撃ち殺し、その頭をもって父を弔うという考えが芽生えた。「後に、そうすべきでないことが分かった……あだを報いるも報いる法ではない」。これは、張學良は血気盛んな年ごろだったが、日本に対し依然として政治的理性を保持し、徹底的に解決する法を模索しようとしたことを物語っている。徹底的に解決する法とは。日本の進歩を目にし、敵を師とし、自らを強大にすることである。
觸覚を日本の政界に伸ばす
徹底的に解決する法を模索するための努力の一つは、日本の政界の矛盾を利用して、政局を転換する可能性のある実力派の人物に影響を與え、日本の政界に自身に有利な人事面の変化を起こさせることである。
この努力は本來、ひそかに進めるべきものだが、日本に「受取書」を発見されてしまった。九一八事変において、日本は大帥府を占領し、日本の軍人は異常なほど狂喜したが、張學良の金庫を開いたその一瞬、日本人は喜びから驚き、驚きから辱め、辱めから畏れを感じた。「彼らは金庫を開けた。私のあの金庫には二つのものが入っていた。一つは楊宇霆、常蔭槐らを銃殺する前に占いに用いた銀貨であり、いま一つは、床次という日本の政黨の首領であり、彼は戻って首相選挙に出ることになっていた……選挙に金を用いる。當時、私は彼に50萬を與えた……そのため、そこに彼の『受取書』があったのである」。日本人は「受取書」を見ると、むしろため息をついた。三十二して立つ年になったばかりの「少將」が、抵抗する觸覚をすでに日本の政界に伸ばしていたことに気づかなかったからである。
軍事の先進性を師に