地震から一週間経ち、各種の仕事は通常の狀態(tài)に戻ってきている。郵便局の職員も通常と変わらぬ様子で業(yè)務(wù)を行っており、まるでマグニチュード9.0の地震がなかったかのようである。
週末の居酒屋では、若者がカラオケを熱唱する一方で、酔っ払いが放射性物質(zhì)漏えいの恐怖を永遠(yuǎn)と発散していた。原宿の代々木公園では、若者たちが思う存分ロックに浸っていた。
東京は今回の地震に関する情報の発信地であり、毎日記者會見が行われた。首相官邸、原子力安全?保安院、東京電力などでは、多くの職員や記者が一日中待機(jī)し、各種の情報が全國そして世界に放送された。聞くところによると、菅直人首相は地震発生から182時間後になって初めて首相官邸から1分の距離にある首相公邸に戻ったのだという。
どの人も自身の職場を守り、秩序が亂れることはない。未來がどれほど予測できなくとも、人々があきらめることはない。被災(zāi)狀況が最も深刻な巖手県花巻市では、延期になっていた卒業(yè)式が廃墟になった校舎で行われた。地震と津波から生き殘った學(xué)生たちは黒色の制服に身を包み、校長先生は「みなさんは災(zāi)害の中、卒業(yè)します。これからは志をもって故郷の再建に勵んでください」と祝辭を送り、一人一人に卒業(yè)証書を手渡した。
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」2011年3月23日