數(shù)日して、袁鹿平さんは何かがおかしいと思うようになってきた。現(xiàn)地の警察が學(xué)校にあれやこれやと口を出してくる。監(jiān)視されていた、とも言えるだろう。ちょっとしたことでも「話を聞くため」と、學(xué)生を警察署に任意同行させたが、実際には學(xué)生達(dá)を日本人に服従させるための威嚇行動(dòng)であったことは明白である。
「日本人への絶対服従」の思想が強(qiáng)制されるようになれば、服従しない者はすなわち「思想犯」となる。ある日、校長(zhǎng)は何の理由もないまま警察に連行され、そのまま帰って來(lái)なかった。
ここにきて袁鹿平さんがいる學(xué)校が舊日本軍に占領(lǐng)されたことがようやく理解できた。中國(guó)東北部全體がすでに日本に統(tǒng)治されてしまったのだ。
日本統(tǒng)治時(shí)代、苦しめたのは中國(guó)人の生活だけではない。袁鹿平さんのような知識(shí)層にとって、思想を抑圧されることは最も辛いことであった。不安と苦しみの中で袁鹿平さんはその後長(zhǎng)く続く日本統(tǒng)治時(shí)代をじっと耐えて暮らした。
◇日本降伏、勝利の祝いにみな泥酔
舊日本軍の勢(shì)いは凄まじかったが、20歳の袁鹿平さんは、正義は中國(guó)人にある、と信じ、いつか必ず日本人を追い出すことが出來(lái)るはずだと思っていた。
14年後、日本降伏の便りが中國(guó)全土を駆け巡った。袁鹿平さんは同僚らとラジオでその情報(bào)を聞いた。長(zhǎng)年の願(yuàn)いがようやく実り、校內(nèi)はもとより、街中が勝利の喜びに溢れかえった。
その夜、同僚らと祝いの席を設(shè)けた。普段、酒を飲まない袁鹿平さんも、亡國(guó)の民として長(zhǎng)年耐え忍んできた生活から解放された喜びにひたり、浴びるほどに飲んだ。誰(shuí)もが家に帰ろうとせず、喜びの余韻に浸っていた。
?中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)? 2011年9月20日