林國本
日本の宮城県を中心に東北六県を発行區(qū)域とする地域ブロック紙「河北新報」の東日本大地震の際の対応ぶり、極限狀況ともいえる被災(zāi)地で、記者たちは取材を続けたことなどを伝えるドキュメント「河北新報のいちばん長い日」の書評(評、後藤正治、ノンフィクション作家)を11月27日の朝日新聞で読んだ。
私たちのような日本と関係のある中國のメディアに勤務(wù)していたOBのほとんどは前世紀(jì)の80年代、90年代に宮城県日中友好協(xié)會の配慮で、対象國の事情をよりよく知るために、宮城県や東京を訪問することになり、「河北新報」見學(xué)はその中でもスケジュールの目玉と見なされていた初めての日本のメディア見學(xué)で、われわれはあこがれ、好奇心、期待感で一杯だった。自分たちの未來のモデルを構(gòu)築するための初體験として、興味津々たるものがあった。この見學(xué)で最初の取っ掛かりをつかめた気持ちだった。その後、仕事で日本に長期滯在することになり、日本の大手メディアの人たちとの觸れ合いも増え、全體像がだんだんとつかめるようになった。それでも「河北新報」見學(xué)の初體験は強烈な印象として、その殘像は今でも脳裏に刻まれている。
「河北新報」は今回の地震でかなりの損害をこうむり、本社ビルは持ちこたえたが、組版が潰れ、新潟日報の助けを得て新聞は出された。販売店の店主、配達員など県內(nèi)で24人以上の犠牲者?行方不明者が出た。このような打撃をこうむっても記者たちは懸命に取材を続けたらしい。一連の報道で、「河北新報」は今年度の新聞協(xié)會賞を受賞している。
中日両國の相互理解の深化、數(shù)千年來の文化の交流ということがよく言われているが、ごく少數(shù)の人たちのことではあっても、中日友好交流はこのように大勢の人たちの目には見えないが、両國のメディアの交流で大きな影響を殘してきたことを忘れてはならない。