1938年3月12日、日本軍の華中の荻洲部隊(duì)に隷屬した渡辺徳右衛(wèi)門(mén)は、新潟県西頸城郡上早川村に住む関原草苗に宛てた手紙に「2月6日に私がいる中隊(duì)は警備し、付近には1萬(wàn)人近い敵が殘っている。かわいそうなのは現(xiàn)地の庶民である。皆殺しの命令を受けたため、子どもに少し同情の気持ちはあったが、涙をため、殺害した數(shù)も少なくない」と記した。
1940年、牡丹江鉄道局東寧特輸の植田益夫は、京都府中京區(qū)王生溯田町36號(hào)に住む古川次郎に宛てた手紙に、「この部落(東寧街)から道1本離れた場(chǎng)所に肉體労働者の死骸が多く散在し、道路と街中にもある。ここから道3本離れた場(chǎng)所にある干上がった小川には、12體ほどの肉體労働者の死骸と箱に詰められた死體がごちゃごちゃと置かれ、野良犬がそれらを少しも殘すことなくかじっている」と記した。
1938年6月8日、奉天工藤部隊(duì)に隷屬した木村鎮(zhèn)雄は、神奈川県金沢市に住む妻の木村美代子に宛てた手紙に「國(guó)境方面の同僚はロシア人に代わって見(jiàn)張りに立ち、毎日強(qiáng)姦事件があると聞いた。同僚は地理と言葉から強(qiáng)姦されたのは全て満州の女性であると判斷した。日夜に関わらず強(qiáng)姦が行われ、多くの女性が數(shù)百人の男に強(qiáng)姦されている」と記した。
これらの資料は、吉林省公文書(shū)館が保管する10萬(wàn)件以上の中國(guó)侵略日本軍が殘した資料の中から見(jiàn)つかったものである、90%が日本語(yǔ)の記録で、日本軍が撤退時(shí)に焼卻しきれなかった資料をまとめたものであり、日本軍が中國(guó)で犯した様々な犯罪行為を記録している。
吉林省公文書(shū)館の尹懐館長(zhǎng)は、「吉林省公文書(shū)館はこれらの手紙の內(nèi)容の翻訳、解読をさらに行い、中國(guó)侵略日本軍の暴行を示す更に多くの手紙が見(jiàn)つかるだろう」と話(huà)した。
「中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)」2014年1月14日