「本音を言えば、私はいつも気がかりだ。一つの家は日本に、一つの家は中國にある。本音を言えば、私にも恨みがある。戦爭の悲劇は永遠(yuǎn)にそれを覚えているだろう。祖國に帰ったが、中國の家は忘れがたい」歌詞が変えられたお馴染みのメロディーが15日夜、中日友好協(xié)會平和宮の中で鳴り響いた。
この曲を歌ったのは20人あまりの日本の高齢者だ。彼らは、中國侵略戦爭によって、中國に殘された日本の孤児だ。歌はそれほど上手ではないが、心が込められ感動的だった。曲が終わると、涙が頬を伝った。
54人の中國殘留孤児でつくる「東京日中友好の會感謝団」は7月11?16日に自費(fèi)で訪中し、中國の育ての親を訪問?追悼し、中國の友人と舊交を溫めた。感謝団は2009年11月に続き2回目の訪中となった。
中日の民間友好を促進(jìn)する中日友好協(xié)會は15日夜、彼らをあたたかくもてなした。
中日友好協(xié)會の王秀雲(yún)副會長は、「おかえりなさい」と心を込めて言った。「皆様は歴史の証人だ。中日友好事業(yè)に引き続き力を盡くし、中日友好交流の堅固な架け橋になることに期待する。中國は永遠(yuǎn)に皆さんの家で、永遠(yuǎn)に皆様を歓迎する」
感謝団の池田澄江団長は、「私たちにとって、日本は祖國で、中國はふるさとだ。戦爭孤児は特殊な集団だ。70年前の戦爭で、私たちは生みの親と離れ離れになった。善良な中國人が私たちを死の淵から救い、二つ目の命を與えてくれた。私たちは感謝を胸に日々を送っている」と述べた。
善良な中國人が日本の戦爭孤児を育てた物語を示すため、平均年齢70歳以上の代表団のメンバーは、舞踴劇「中國の母」のリハーサルを行った。參加者の中村恵子さんは聲をつまらせ、「微力だが、日本人にあの歴史を理解してもらおうと力を盡くしてきた。私たちは若くなく、多くの人が重病を患っているが、子供のような汚れなき心で、多くの場でこの『中國の母』を演じたい」と話した。
同日夜の活動に出席した在中國日本大使館の伊藤康一首席公使も、中國殘留孤児が日中友好事業(yè)に貢獻(xiàn)していることを支持し、「今年は終戦70周年だ。皆様が日中友好の架け橋として、新たな日中友好関係の構(gòu)築に貢獻(xiàn)する強(qiáng)い意向を持ち訪中したことに、深く感謝を表する。日中友好がいつまでも続くことを心から願う」と述べた。
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」2015年7月17日