養(yǎng)母と3人目の養(yǎng)父?趙樹森と撮影した一家の寫真。中島幼八さんは右側(cè)。
この13年、養(yǎng)母は3人の養(yǎng)父とリレーのように中島さんを育てた。
中島さんの最初の養(yǎng)父は、陳玉貴という実直な東北の農(nóng)民で、長(zhǎng)期の雇い人として働いていた。中島さんを自分の子どものようにかわいがっていたが、中島さんが8歳の時(shí)に病気で亡くなった。養(yǎng)母は中島さんを連れて2人目の養(yǎng)父の李希文に嫁いだ。12歳の年、中島さんは重い病気にかかった。李希文は牛車で中島さんを連れ、醫(yī)者と薬を探すのに手を盡くしたという。3人目の養(yǎng)父は趙樹森と言い、埠頭の肉體労働者だった。毎月15元の生活費(fèi)を渡し、中島さんが學(xué)校に通うのを助けた。この3人目の養(yǎng)父は養(yǎng)母と結(jié)婚したものの、一緒には生活していなかった。長(zhǎng)年経ってから中島さんが知った所によると、養(yǎng)母が3人目の養(yǎng)父と結(jié)婚したのは、中島さんのその後の日々が順調(diào)に行くように戸籍を作るためだったという。
1954年、中國(guó)赤十字會(huì)代表団が馮玉祥將軍の夫人、李徳全に率いられて日本を訪れた。中島さんの生母は李徳全に、自分の子どもが中國(guó)にいることを打ち明け、自分に代わって探してくれるよう頼んだ。李徳全は、各種のルートでこれを探し、4年後に牡丹江で16歳の中島さんを見つけた。
日本政府の職員がやってきて中島さんに、生母の日本帰國(guó)の希望を伝えた。當(dāng)時(shí)、人見知りだった中島さんは、「電車に乗せられても飛び降りて戻ってくる。絶対に日本には帰らない」とこれを拒否した。最後に、中島さんの師であり友であり親戚でもあった教師の梁志傑が「中日友好に貢獻(xiàn)する」という視點(diǎn)から、中島さんに日本に帰ることを勧め、人生最大の決定を助けた。1958年、中島さんは帰國(guó)し、長(zhǎng)期にわたって中日民間友好交流の活動(dòng)に従事し、鄧穎超や廖承志、唐家センらの翻訳を擔(dān)當(dāng)した。
中島さんのように中國(guó)に遺され、中國(guó)人に育てられた日本人孤児は殘留孤児と呼ばれる。人數(shù)は4000人以上とされ、その9割以上は、東北三省と內(nèi)蒙古自治區(qū)に集中している。中島さんは、自らの物語によってこの歴史を人々に知らせるため、「この生あるは」を書いた。
中島さんはまず日本語版を書き、それから中國(guó)語版を書いた。日本語版は今年4月に出版された。この本を出版するために、中島さんは一年分の年金を使い、自らが収蔵していた書畫も売ったという。
?中國(guó)網(wǎng)日本語版(チャイナネット)? 2015年8月3日