私はある時(shí)期、日本の切手の収集に熱中した。絵柄の多くが濃厚な古典的趣を持っており、會(huì)議を記念するものばかりだった當(dāng)時(shí)の中國(guó)切手のスタイルとは段違いに思えたからだ。
そのうち一枚が、1980年に日本で発行された庚申年の干支(えと)の絵柄の切手だった??冥饶?、耳をそれぞれ手で押さえた3匹の猿が描かれている。これは『論語(yǔ)』の「非禮勿言,非禮勿視,非禮勿聴」(禮にあらざれば言うなかれ、禮にあらざれば視るなかれ、禮にあらざれば聴くなかれ)を由來(lái)としている。
當(dāng)時(shí)は、この切手のモデルとなった像の下に立つことになるとは思いもしなかった。
徳川家康の地位と貢獻(xiàn)を稱(chēng)えるため、日本神道は家康を江戸幕府の守護(hù)神、東照神君としてあがめた。
日本各地ではその後、家康を祀る神社と寺院が200カ所以上で建てられ、どれも東照宮と呼ばれるようになった。
日光山のふもとにある日光東照宮はすべての東照宮の元祖と言える。ここの森の中には徳川家康の墓が隠れている。
日光東照宮は、山のふもとから上へと一層ずつ建てられていった。山門(mén)の外には杉の木の五重塔と古樹(shù)がそびえ立ち、濃厚な唐代の風(fēng)格で、華麗さとスケールの大きさを感じさせる。
階段の突き當(dāng)たりが陽(yáng)明門(mén)である。徳川家康は生前、中國(guó)の明代の大儒である王陽(yáng)明を崇拝し、陽(yáng)明の「心學(xué)」の流派のうち「格物致知」を自らのために応用していた。この門(mén)はこれによって命名されているだけでなく、唐の人物や唐の獅子の彫刻で埋め盡くされている。中原文化の吉祥物である鳳凰や鶴、梅、牡丹などの華麗な細(xì)工がびっしりとなされちる様子からは、中國(guó)文化に対する徳川家族の崇拝と敬慕の程度が見(jiàn)て取れる。