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lbxysyl.com |28. 09. 2022 |
劉建中氏:政治的雰囲気あっての映畫交流
元國家ラジオ映畫テレビ総局映畫局局長 劉建中=文
60年以上、中國映畫の製作?管理に攜わってきた身として、私は新中國成立以降の中日映畫交流を目撃し、経験してきた。交流の歴史を振り返ると、中日の政治関係が正常なときであれば、映畫または文化交流も盛んに行われていたことに気付く。
周知の通り、中日近代史において、特に第2次世界大戦中、日本の軍國主義は中國の人々に極めて大きな災難をもたらした。このような生命や財産を奪われた痛みを癒やすのは、どの國の人々にとってもたいへん難しい。この歴史に誠実に向き合うことができなければ、傷つけられた側として、感情面で受け入れることができず、雙方の関係に影響を及ぼし、通常の映畫交流なども困難になるに違いない。
50年前の中日國交正常化実現(xiàn)前後、中日間の政治的雰囲気は比較的良かった。中國の改革開放から間もなく、中日映畫界の往來が頻繁だった1980年、相手國の紹介映畫を作るため、両國は撮影チームを派遣することについて協(xié)議したと記憶している。當時、中國の指導者はこの機會を捉え、日本の工業(yè)や農(nóng)業(yè)に関する経験を映畫化して紹介し、改革開放の參考とすることを期待した。そしてそれは大きな成果を上げた。
私は幸運にもカメラマンとして日本に派遣され、同僚と一緒に『訪日見聞記』という映畫を製作した。日本での數(shù)カ月にわたる取材と撮影の中、私たちは多くの場所を訪れ、多くの日本人と觸れ合った。ある日、畑で素樸な農(nóng)家の方と出會った。彼は第2次世界大戦で兵士として中國に行ったことがあり、中國の人々には大変申し訳ないことをしたと、自ら語った。私は、「われわれは歴史を忘れることはありません。ただ、それは憎しみを抱き続けるためではなく、今後平和で友好的に付き合っていくためです」と答えた。その言葉に感動した彼は私の手を強く握り、何度もうなずいた。そのときの彼との真摯な心の交流は、今でも忘れられない。
筆者が1980年代に製作に攜わったドキュメンタリー映畫『訪日見聞記』(寫真提供?劉建中)
中國政府と圧倒的多數(shù)の中國の人々は、客観的な事実に基づき、公正かつ理性的に中日関係を捉えることができる。中日映畫交流?協(xié)力の歴史において、持永只仁、森川和代、岸富美子をはじめとする前世代の日本映畫関係者のことを忘れてはならない。早くも46年に、彼らを含む20人以上が新しく設立された東北映畫製作所に殘り、解放區(qū)の初期の映畫製作の発展に大きく寄與した。2005年に完成した中國電影(映畫)博物館には、彼らを記念する特別コーナーを設け、寫真や文章で日本映畫関係者のことを現(xiàn)代の人々に紹介した。あれから70年以上たち、みんなすでに故人となったが、今でも中國電影博物館で當時の姿を見ることができる。
中日関係の政治的雰囲気が良好なとき、雙方の人々の感情が穏やかで、両國の映畫関係者の緊密な交流や映畫製作の協(xié)力が促され、映畫の共同製作や相手國映畫の一般公開が実現(xiàn)される。一時期、日本の映畫や映畫スターは中國の観客に大きな影響を與え、多くの作品が中國の人々の心を動かし、日本の文化や人々の生活を真に理解する上で重要な役割を果たしたことがある。同様に、中國映畫も日本の観客が中國の文化や人々の生活を理解する上でかけがえのない役割を果たしている。
未來に向けて、日本政界の指導者たちが事実に基づいて歴史を直視し、中國と共に內(nèi)政への相互不干渉(7)と平和共存の原則に基づき、調(diào)和が取れて打ち解けた政治的雰囲気を作り出すことを期待してやまない。そうしてこそ、中日映畫交流は明るい未來を迎えることができる。