中日両國> |
lbxysyl.com |28. 09. 2022 |
大久保勲氏:生き証人として當時を振り返る
元東京銀行(現?三菱UFJ銀行)駐華総代表 大久保勲=文
私は1971年1月に日中覚書貿易事務所駐北京事務所に赴任した。同年4月にピンポン外交、7月のニクソン?ショック、10月の中國の國連復帰、翌年2月の米ニクソン大統領訪中、9月の日中國交正常化など、歴史に殘る大きな出來事を、昨日のことのように思い出す。
71年4月10日に、米國の卓球チームが北京を訪問した。首都體育館で中米親善試合が行われ、私たち覚書事務所員も招待された。正面に「米國卓球チームを熱烈に歓迎する」と書いてあり、米國の選手にも惜しみない拍手が送られた。
7月9日?11日、キッシンジャー米大統領特別補佐官が隠密裏に訪中し、周恩來総理と會談した。7月15日、ホワイトハウスは「ニクソン大統領は來年5月までに、周恩來総理の招待で北京を訪問する」と発表した。
10月26日、私が出勤すると間もなくNHKから電話があり、國連総會の模様を中継してくれた。中華人民共和國を中國の代表として國連參加を求める「アルバニア案」が可決され、中國の國連復帰が決まるころ、キッシンジャー米大統領特別補佐官は北京空港を飛び立った。
同日夜、北京飯店で、私はイラン大使館のナショナルデイパーティーに招待された。會場に周恩來総理が顔を見せると、どっとどよめきが起きた。周総理は、各テーブルを回って、だんだんと私のいるところに近づいてきた。まぶしい照明の中で私は自己紹介して、周総理と握手した。歴史の大きな流れを感じた。
周総理の會見は何度もあったが、最も忘れがたいのは71年12月20日の會見であった。會見が始まってしばらくたった時、周総理が「この中に銀行の人がいますね」と言われた。私がそっと手を挙げると、周総理が「もっと前にいらっしゃい」と言われ、前に進み出ると、私の席が用意され、マイクも置かれた。
會見は、ワシントンでの10カ國蔵相會議の多角的通貨調整で「1?=308円」が決まった直後であった。周総理は「中日貿易を人民元と日本円で直接決済してはどうか」と言われ、いくつか質問も受けた。「円元決済」協定は、72年8月、國交正常化1カ月前に東京銀行(現?三菱UFJ銀行)と中國銀行との間で合意に達した。
72年2月21日、米國のニクソン大統領が北京を訪問した。私は長安街の人民大會堂寄りの、米國のテレビ中継車のそばで待った。長い車列が速いスピードで通過した。その中に、大型の乗用車2臺が星條旗をなびかせて走っていた。
1971年12月20日、周恩來総理との會見で握手をする筆者(寫真提供?大久保勲)
9月25日午前11時半、田中角栄首相ら一行は北京空港に到著した。空港には周恩來総理、葉剣英中國共産黨中央軍事委員會副主席、郭沫若全人代常務委員會副委員長らが出迎えた。私たち覚書事務所員もその場にいた。秋晴れの北京空港に日の丸が翻り、君が代が吹奏された。9月29日、「日中共同聲明」が調印され、ついに日中國交正常化が実現した。
51年前、私の北京への赴任に先立ち、岡崎嘉平太先生は、中國を知ること、見ることを仕事の第一と心掛けよ、と言われた。日本にとって、隣國中國との歴史も、中國の重要性も、立場も歐米とは異なる。中國を十分に知る努力を続け、中國への対処を誤らないことは、難しい國際政局の中では、極めて重要だと改めて思う。