中日両國(guó)> |
lbxysyl.com |22. 10. 2024 |
3000人訪中の舞臺(tái)裏(前編)困難乗り越え挙行
張雲(yún)方=文?寫真提供
今年は第2回中日青年友好交流――「日本青年3000人訪中」活動(dòng)から40周年となる。1984年を振り返ると、日本の青年たちと交流した半月ほどのあの楽しいときがよみがえってくる。
「日本青年3000人訪中」活動(dòng)は、胡耀邦総書記が提案したものだ。胡総書記は83年11月26日、都內(nèi)渋谷のNHKホールで、數(shù)千人の日本の若者を前に、「來(lái)年の9、10月、わが國(guó)の最も素晴らしい秋晴れの季節(jié)に皆さん3000人の若者を1週間、わが國(guó)に招待します」と聲高らかに呼び掛けた。胡総書記のこの話に會(huì)場(chǎng)から熱い拍手が送られた。中日青年友好交流の大事業(yè)はこうして決まった。
実は當(dāng)初、胡総書記の考えでは日本の青年1萬(wàn)人を招待するつもりだった。だが、當(dāng)時(shí)の受け入れ能力から、最終的に3000人に落ち著いたのだった。
中日の友好交流の歴史には、古くは遣隋使や遣唐使があり、19世紀(jì)末には中國(guó)から5萬(wàn)人近い若者が日本に留學(xué)し、1965年には第1回中日青年友好交流などの壯挙があった。だが、3000人余りの日本の若者が同時(shí)に訪中するというのは初めてだった。私はこれを中日友好史上の盛會(huì)と呼んでいる。
中日青年友好交流の挙行が決まると、両國(guó)はそれぞれ動(dòng)き始めた。中國(guó)側(cè)にとって、これは全國(guó)?全國(guó)民?全黨を挙げて行う前例のない活動(dòng)であり、また中國(guó)が開放改革の揺るぎない決心を示す場(chǎng)であった。
早速、共産主義青年団(共青団)中央と中華全國(guó)青年連合會(huì)、中日友好協(xié)會(huì)などの組織が準(zhǔn)備委員會(huì)を発足させた。政治局委員で中日友好協(xié)會(huì)の王震名譽(yù)會(huì)長(zhǎng)が準(zhǔn)備委員會(huì)の主任に就いたほか、王兆國(guó)共青団第一書記が同委員會(huì)第一副主任に、中華全國(guó)青年連合會(huì)の胡錦濤主席(後の黨総書記?國(guó)家主席)が同事務(wù)長(zhǎng)、同連合會(huì)の劉延?xùn)|副主席が同副事務(wù)長(zhǎng)にそれぞれ就任した。
次に日程とルートが決められ、中日青年友好交流は84年9月24日~10月8日に行われ、3000人余りの日本の若者が計(jì)3陣?4団に分かれて入國(guó)することが確定した。
日程では、第1陣の2団1500人は9月24日、上海から入國(guó)。上海?南京?杭州を訪問(wèn)し、29日に北京に到著。第2、3陣の各1団は、9月28、29日に北京から入國(guó)。全4団の日本の若者は北京で合流後、中國(guó)の國(guó)慶節(jié)を祝う式典に參加。また政府の要人が住む中南海を見學(xué)する。
交流期間は延べ15日に及び、若者たちはそれぞれ1週間かけて工場(chǎng)や農(nóng)村、學(xué)校を見學(xué)。北京?上海?杭州?南京?武漢?西安の6都市を訪れることになった。こうして招待の具體的なプランが決まり、合言葉は「気楽に?楽しく?元?dú)荬?/span>?多様?shù)摹工趣胜盲俊?/span>
中國(guó)全土から集められた接遇スタッフは5000人(サービス部門は含まず)に上り、さらに隨行の醫(yī)師や警護(hù)スタッフなども加わった。その後、日本政府と47都道府県の自治體?友好団體に向けて招待狀を送付した。
日本側(cè)の行動(dòng)も素早かった。関係者による訪中プランの検討が84年1月に行われた。また同年4月には、日本青年団協(xié)議會(huì)を中心とした國(guó)內(nèi)36の青年組織と日中友好6団體が共同し、「日中青年友好交流組織委員會(huì)」を発足させた。同組織委の代表には日本青年団協(xié)議會(huì)の小野寺喜一郎會(huì)長(zhǎng)が選ばれ、事務(wù)局は都內(nèi)の日本青年會(huì)館に置かれた。
限られた條件のため、事務(wù)局の部屋はわずか20平方?で、全國(guó)各地から募集し集めた事務(wù)スタッフもたった7人だった。だが、あふれる熱意で日夜を問(wèn)わず仕事に打ち込むスタッフたちは、24時(shí)間営業(yè)の「セブン_イレブン」をもじって「休まないチェーン店」と呼ばれた。事務(wù)局で一番目を引くのは日替わりのカウントダウン看板で、皆に奮起を促していた。
9月20日、中日青年友好交流の中日側(cè)の各準(zhǔn)備作業(yè)が整った。日本側(cè)が送って來(lái)たリストは、參加217団體3082人、取材記者65人だった。私がざっと數(shù)えたところ、217団體には古くからの友人とその子女らの4グループがあった。その中には、日中友好に長(zhǎng)く盡くした実業(yè)家の岡崎嘉平太氏や政治家の宇都宮徳馬氏、鳩山威一郎氏、外交官の法眼晉作氏、大平裕氏(大平正芳元首相の次男)、松山バレエ団創(chuàng)立者の清水正夫氏、ジャーナリストの西園寺一晃氏、日本青年館の板本登氏、日本青年団協(xié)議會(huì)の柳本嘉昭氏、茅整三氏(元東大學(xué)長(zhǎng)?茅誠(chéng)司氏の三男)、池田城久氏(宗教家?池田大作氏の次男)らがいた。
文化?蕓術(shù)界も四つのグループがあり、俳優(yōu)の中野良子氏と宇津井健氏、歌手の金沢明子氏と芹洋子氏らがいた。代表団は老年?中年?青年で構(gòu)成され、日本の政治?経済?実業(yè)?學(xué)術(shù)?教育?スポーツなどの各界を網(wǎng)羅し、年齢は35歳以下が90%を占めた。また、後に首相となった菅直人氏や野田佳彥氏の名前もしっかりと載っている。
一番大変だったのは中日雙方の事務(wù)局だ。日本側(cè)の事務(wù)局スタッフ7人は5カ月の間、青年友好交流のデザインや歌の募集や各方面との連絡(luò)、日程調(diào)整、參加者リスト作成などの仕事に忙殺され、ほとんど休む間もなかった。特に作業(yè)ピーク時(shí)の1週間は、小野寺會(huì)長(zhǎng)、事務(wù)局スタッフ共にほとんど事務(wù)室に泊まり込み狀態(tài)だった。
中國(guó)側(cè)の事務(wù)局は、スタッフの數(shù)は日本をはるかに上回っていたが、プランの作成から具體的な実施まで――中國(guó)側(cè)の接遇擔(dān)當(dāng)者も含め5000人近い人々の毎日の食事と宿泊施設(shè)の手配、見學(xué)場(chǎng)所との調(diào)整、交流プログラムの審査、空港への出迎え?見送り、セキュリティーの確保などあらゆる面を網(wǎng)羅していた。そんな狀況を劉延?xùn)|副事務(wù)長(zhǎng)は、「私たちは皆すっかり宵っ張りになってしまいましたが、逆にその大変さを楽しんでいましたよ」と語(yǔ)った。
私は、中日青年友好交流に參加した他の報(bào)道機(jī)関の記者と違い、社説を書き、四つの交流団の同行取材もしなければならなかったので、晝も夜も休みなく半月余り各代表団の間を奔走した。
9月22日、『人民日?qǐng)?bào)』の社説「友好交流の空前の盛會(huì)」の初稿ができ上った。私は、中日青年友好交流準(zhǔn)備委員會(huì)の王震主任の事務(wù)室に電話をかけ、原稿をチェックするかどうか尋ねた。答えは、同委員會(huì)の王兆國(guó)第一副主任に見せてください、とのことだった。當(dāng)時(shí)、王兆國(guó)氏は同委員會(huì)の第一副主任だけでなく、黨中央弁公庁の主任も務(wù)めており、多忙を極めていた。王兆國(guó)氏からは、同委員會(huì)事務(wù)長(zhǎng)の胡錦濤氏などに目を通してもらうよう言われた。そこで私は、胡氏ら同準(zhǔn)備委員會(huì)の関係者が事前準(zhǔn)備の拠點(diǎn)としていた北京の香山ホテルに駆け付けた。
私が胡氏に社説の最終稿を渡すと、胡氏はすぐさま劉延?xùn)|副事務(wù)長(zhǎng)を呼び、その場(chǎng)でチェックし始めた。ゲラを読み終わると、胡氏は遠(yuǎn)慮がちに「少し言葉遣いを変えてもよいですか」と聞き、鉛筆で手直しした。1時(shí)間もたたずに原稿チェックは完了した。
ホテルを離れる際、胡氏はスタッフに持って來(lái)させた國(guó)慶節(jié)での天安門臨時(shí)観閲臺(tái)の取材記者証を渡し、「健康に気を付けて。何かあれば私に言ってください。取材の成功を祈ってます」と言ってくれた。
私は今も、胡錦濤氏と劉延?xùn)|氏が當(dāng)時(shí)チェックした社説のゲラと、天安門臨時(shí)観閲臺(tái)の記者証を大切に殘している。
1984年9月24日、私は飛行機(jī)で上海に到著し、日本の友人の訪中第1陣を出迎えた。また同日、社説「友好交流の空前の盛會(huì)」が『人民日?qǐng)?bào)』の第1面に掲載され、中日青年友好交流の幕が開けたのだった。
「人民中國(guó)インターネット版」2024年10月22日