「少林サッカー」のうわさが、またメディアで盛り上がっているという。ある武術の教授が報道機関に武術とサッカーはウィンウィンで連攜できると語ったという。彼は少林カンフーの足技である十二路弾腿、杭功やその他の拳法が、學童の足技を向上させ、攻撃耐性や身體の協調性を高めるのに大いに役立つとして、こうした技をサッカーに取り入れ、サッカーの訓練レベル向上に役立ててほしいと主張した。(文:王伝濤、光明日報掲載)
少林寺と河南建業サッカークラブが提攜しているサッカー學校で、少林カンフーをサッカー訓練に取り入れているという情報を聞き、あの流行語がぴったりだった。「私と私の子どもたちはみんなあんぐり!」だ。天山「武林大會」では、様々な流派や武術が多くの場合コスプレのようになり、本來の格闘技とは全く関係なくなっているのを目にしている。ある流派では、民間の意見によって「ほどほどのところでやめるように」迫られたという例を話してくれた。カンフーのほとんどは伝説にすぎない。カンフーがサッカーと融合したところで、おそらく中國サッカーの失敗の教訓をまた1つ増やすだけだろう。
現代サッカーは、1863年イギリスで生まれ、100年以上をかけて特に歐州プロリーグで発展してきた。サッカーはすでに成熟したスポーツであり、ルール、技術、意識、戦術、トレーニングにも定型がある。定型をする中には、武術やカンフーの要素はなにもない。しかも、サッカーはそれ自體のルールがあり、體の決まった部分のみボールに觸れることで合理的に対戦することで明確な答えがある。カンフーをサッカーに組み込んでも、でたらめな結果になるだけだ。
サッカーとカンフーを連攜すると、おそらく3つの結果が想定される。ひとつは、サッカードリームの消滅だ。サッカーゲームは、勝負勘、戦術、技術のスポーツで、美しく実のない武術のパフォーマンスではない。二つ目は、カンフードリームの消滅だ。中華武術の権威と信頼が損なわれてしまう。そして三つ目には「カンフーで強い國ドリーム」の節操が打ち砕かれる。最終的に唯一成功したと言えるのは、誇大宣伝をする投機筋だけだ。
長きにわたって、中國人の多くはカンフーの世界で「強い國ドリーム」を創りあげるのが好きだ。映畫作品の多くは「外國人を打ち負かし、中國民族の気概を証明する」ストーリー仕立てで作られている。よく再放送される「葉問」シリーズや「蘇乞児」、「精武英雄」、「黃飛鴻」は、中國人ならテレビを見ていて、土壇場で出てくるいわゆる民族のヒーローが、カンフーで外國人の大男を一気に爽快になぎ倒しているのを見たことがあるだろう、やや幼稚ではあるが。
中國サッカーについてよく考えるなら、現代サッカーの成功體験を一歩ずつしっかりと作り上げていくしかない。政府はより多くのサッカー場を建設し、より多くの青少年がこの楽しいスポーツに參加するようにしなければならない。サッカーのルールやスポーツルールに基づいて、管理と実務の分離を実現する必要がある。サッカーにカンフーを連攜させるのは無用の要素だし、実際必要がない。
もちろん、カンフーをすることは決してサッカーができないというわけではないが、ただロジックのないやり方はダメだというだけだ。サッカーとカンフーは別の世界だ。商業的な提攜はビジネス上のことだ。「少林カンフーでサッカー技術を向上させよう」などと騒ぎたてて、大衆を惑わせることはやめたほうがいい。
「人民網日本語版」2013年8月16日