■1980年 『ゲサル王』の研究者に
1979年末から始まった改革開放は、ジャンベンジャツオさんの人生に再び大きな変化をもたらしました。
1980年、中國の學術研究のアカデミー?中國社會科學院は民族文化研究所を新設しました。一般公募で研究員を募集しており、ジャンベンジャツオさんは研究所初のチベット族研究員になりました。彼はその後、チベット語で小説を書いたり、また、ライフワークとして、チベット族の敘事詩『ゲサル王』の収集、整理に取り掛かりました。
『ゲサル王』は「古代チベットの百科全書」という譽れがあり、チベット自治區のみならず、新疆、內蒙古などにも広く伝わっており、その長さは『ホメーロスの英雄敘事詩』の100倍もあるとも言われています。
子ども時代、故郷の巴塘でも流浪する『ゲサル王』の語り部の姿を見たり聞いたりしていたジャンベンジャツオさんにとって、敘事詩の整理と発表によって、チベット文化の豊かさを明らかにすることができるところに特別な意義を見出しました。
――長い間、チベット文化と言いますと、人々はチベット仏教をイメージしました。確かに、仏教文化はチベット文化の重要な伝統の一部ではありますが、チベット文化には仏教のみならず、一般大衆の作りだした民間文化も含まれています。四方をさすらいながら、ゲサル王を語り伝える語り部こそ、チベット民族の創造性と知恵の現れなのです。
長い間、『ゲサル王』は流浪する語り部の口頭伝承に頼り、文字での記録はありませんでした。語り部たちは、食べるものも著るものも保障されず、物乞いよりも見下された地位にありました。民主改革がこうした語り部たちの生活を改善し、彼らの地位を著しく改善したとジャンベンジャツオさんはその変化を喜んでいました。
――昔は、語り部たちは頼れるところもなく、さすらい続けていました。物乞いはまだ乞食稅を払っていましたが、彼らはそういう稅金すら払えない存在だと見下され、地位は非常に低いものでした。そんな彼らは、民主改革によりうって変わって、社會の主人になり、文化の主人公になり、さらに、今では「國寶」として大事にされるようになりました。
『ゲサル王』の整理作業は新中國ができてから始められましたが、とりわけ、改革開放の後、一連の目覚しい成果を成し遂げました。1984年、『ゲサル王』の整理と研究のため、チベット、四川、青海、甘粛、新疆、雲南、內蒙古など7つの省?自治區にまたがる研究グループが発足しました。20年あまり経った今、これまで300種類あまりの異なるバージョンの『ゲサル王』本を整理し、そのうちの100種類が出版されました。売れ行きは合せて400萬冊に上り、「平均すれば、チベット族の人がほぼ一人あたり1冊買っている」という計算になります。チベット語や漢語による研究書の発表、研究者の養成でも著しい成果が見られました。さらに、ゲサル王関連のチベット劇やタンカ仏畫、チベット舞踴が掘り起こされ、人々の娯楽をも豊富なものにしました。
■『ゲサル王』は全人類の寶
ジャンベンジャツオさんの機の上に、原稿が山積みになっています。定年退職した後も引き続き研究に沒頭する彼には、「疲れを感じさせない仕事と目標がある」と言います。
――40冊からなる『ゲサル王精選本』の編纂を完成させたいです。今はまだ18冊終えたばかりです。たいへんな作業ではありますが、喜んで取り組んでおり、ちっとも疲れを感じません。
経済と社會の発展は人々の生活スタイルを変え、近代文明は中國の沿岸部に止まることはありません。改革開放により、ハリウッド映畫やパソコンゲームがチベット族の居住區にも流入し、影響をもたらしています。
――『ゲサル王』の語り部が減りつつあるだけでなく、好んで聞こうとする観衆の人數も減りつつあります。ベテランの語り部は年が取り、どんどん亡くなっていきます。最近、新しい語り部も出てきているものの、総人數は20年ほど前の半分程度、100人ほどにまで減りました。
70年あまりの人生では、幼少時の家族の離散、貧しさ、農奴制の人間性への束縛という辛酸を嘗め盡くし、その後、社會制度の転換などいくつもの巨変を體験しました。
北京での暮らしは半世紀になるものの、今も家の中ではチベット語で話をし、応接間にはポタラ宮の掛け絨毯とタンカ仏畫を飾っている暮らしの中からも、どことなくチベット高原の匂いが漂ってきます。
「北京はようやく春めいてきましたね。姪の電話では、巴塘では2月頭にもう桃の花が咲き始めたようです。気候の良いところですよ。」
ラサや巴塘で暮らしている兄弟や姪たちとは良く電話で話しており、故郷のことは一刻たりとも脳裏から離れていないようです。
40巻の『ゲサル王精選本』は、現在は全部チベット語で整理していますが、これから漢語やその他の言語への翻訳作業にもジャンベンジャツオさんは期待を寄せています。
「『ゲサル王』は全人類の寶だからです」。
今日も、チベット族である誇りを胸に、自分の心のうち、そして、チベット民族の伝統文化と靜かに対話を楽しんでいるようです。
「中國國際放送局 日本語部」より 2009年3月29日
【背景】
1959年3月28日はチベットにとって、新舊社會の分岐點である。分岐點の一方の三大領主(封建政府、貴族、寺院の上層僧侶が構成した農奴主)は人口の5%にも満たないが、チベットのほぼ全體の耕地、牧場、森林、河川を占有する。もう一方の百萬人に上る農奴は農奴主の私有財産であり、意のままに売買や交換、蹂躙される。1959年3月28日から、2年間かけて行われていた民主改革、政教合一の農奴制度は切り崩され、百萬の農奴と奴隷は國の主宰者となった。
「チャイナネット」2009年3月29日