美學専門家で清華大學哲學部副主任を務める肖鷹?教授は容姿について、人の美しさは違いと個性によって引き出されるものだと語る。しかし現在の「審美整形」は人の容貌の個性を消し、固定された決まった形で人の容貌をつくりだすと指摘する。
肖教授は、整形ブームは現代社會の映像文化が文字文化を圧倒している局面と密接な関わりがあると認識している。「伝統的な意義の上では、真の美しさは會話でなくとも意識で伝わり、映像を用いて表現することもなかった。現代の映像文化は社會世論が追求する『美』において圧倒的優性を占め、これは一種の単一化、平面化された『美』です。しかし文字文化が主導した時代には、美は精神の內に込められた豊かな詩の心だったのです」。
ある企業の人事部インターンの張軒さんは1年以上前、無數の応募履歴書に觸れた際、部長の最も慣れた書類選考方法が、見た感じがよい人を選んでいることに気付いた。張さんは部長に尋ねたところ、部長の答は「見た目を見ないで何を見るんだ?修養を見ろとでも言うのか?修養ってなんだ?內の修養が外観よりも大切でなければならないのか?」だった。
「整形ブームは若者の審美教育に大問題があることを示している。今のメディアには蕓能文化が溢れ、若者に単一方向の『審美』引導をもたらすことになり、外観のみ見て、精神を尊重せず、技術を迷信し、自然を軽視するのです」。肖教授は、現代の國民素養教育は、蕓能消費を主旨とする大衆文化の深刻な挑戦にさらされていると語る。當面の急務は、若者に肉體と魂、自然と技術、個性と社會などの関係を弁証?理解してもらい、美を理解し、美を創造し、美を惜しんでもらいたいという。これにより、若者が美を追い求める夢の中で、王貝さんのような悲劇は起こらないというのだ。
しかしながら美を愛する心は、誰もが持っていると認める人もいる。自身の容姿を変えることは孝行に関係なく、就職のため、あるいは自身のイメージを変えるためだろうが、美しさを追求するのは人の天性であり、いけないことではないのだ。醫療整形美容は若者の一種のファッションとなり、実のところは化粧や綺麗な洋服を著ることと本質は同じで、いずれも美しさの追求であり、程度が違うだけなのだ。しかしこれにおののきを感じ、現代社會に「幻想癥」が広がっていると認識する人がいる。これは一種の正常な社會の審美消費の進歩であり、これにうちひしがれて悩む必要はないのだ。
「人民網日本語版」2010年12月26日