地震後、初めて東京を離れ広州行きの便に乗った中國人女子留學生?馮さんは13日、広州白雲空港で「新快報」記者の取材に対し、日本での大地震について「日本に2年生活して、小さな地震は毎日のようにありましたから、慣れていました。日本を離れる前日に、まさか自分が本當の大地震に遭うとは思ってもいませんでした。本當に怖かった」と語った。ウェブサイト「海口網」が13日付で伝えた。
▽身震いしながら必死で逃げた
馮さんは広州中醫薬大學第一附屬醫院の學生で、2009年に交換留學生として広州を離れ、秋葉原のある醫科大學に留學。先月卒業し、今月12日にふるさとに帰ることになっていた。馮さんの帰國前日、日本で大地震が起きた。「日本時間11日午後3時前に、マンションの中が1分以上揺れました。食器、料理道具、家具、本はぜんぶ床に落ち、私たちは慌てて機の下に潛り込みました。耳元では『ゴトゴト』という音とルームメイト3人の叫び聲が響き続けていました」----。
「1分ぐらいだけだったと思います。でも揺れのせいで私たちは目がくらみ、この時初めて地震の威力だったことに気づき、自分達の環境が危険だとわかりました。揺れが収まってから、4人で一緒にマンションから路上に急いで出て、必死で逃げました。両腳が身震いするのが怖かった。もう走れなかった。幸い友達に助けてもらい、駅の避難所に無事に逃れました」----。
夜になり地元警察から帰宅してもよいとの指示があり、馮さんは勇気を出して被災後のマンションに帰った。日本で地震が起きた後、最も恐ろしいのはガス漏れによる火災だ。馮さんは帰宅しても電気をつけず、インターネットも使おうとはしなかった。実家に無事を電話で伝えたかったが、攜帯電話は信號がとぎれ、通話不能だった。「非常に焦りました。広州の両親は日本で地震が起きたことを必ず知っている。私からの電話がなければ、心配でいてもたってもいられないだろうと思って」----。
4人はしばらく辛抱していたが、隣に燈が見え、彼女たちは思いきってパソコンの電源を入れ、チャットツール「QQ」にアクセスした。「妹がすでにQQにサインインして私を待っていてくれたんです。私のメッセージを見て、無事を知ると、ようやくお母さんとネット電話をつないでくれました」。
▽「空がこんなに安全だと思ったことはなかった」
地震の翌日、馮さんは早朝からスーツケース2つをまとめ、空港に直行した。しかし電車は運転再開をしたばかり。ダイヤは大幅に亂れ、次の列車まで長く待った。車內は大勢の人で溢れていた。午前11時、馮さんはようやく成田空港に到著、予約時間よりもすでに4時間遅れていた。「帰れない???」----。絶望の中、場內アナウンスでフライトが遅れることを知り、やっと安心した。
馮さんは2年間、一度も実家に戻っていなかった。彼女は今回の帰郷の心境をこのように語る。「地震の後、とにかく両親と家族のことだけを考えていました。日本から逃げるわけではないけれど、帰郷への想いが切迫していました」----。
13日午後5時41分、馮さんが乗った飛行機はやっと広州白雲空港に著陸した。彼女はゲートを出ると、すぐに慌てて家族に「帰宅」を伝えた。午後6時半、姉と妹が到著ロビーで待っていた。やっとすべてのため息が底をついた。
馮さんは記者に語った。飛行機の中では地震の時のことが頭をよぎり続け、日記を開ける気持ちさえ起こらなかった。自ら経験した災難の事細かな記録を。後に彼女はこう記した。「成田空港で待っていた時、これほどまでに大空が戀しいと思ったことはなかった。ついに離陸した時、空がこんなに安全とは思ったことはなかった。広州に著いた時、しっかりと陸地を踏みしめるのがこんなに貴重だとは思ったことはなかった」。
「人民網日本語版」2011年3月14日