鄭さんが見た、鈴木さんが日本に持ち帰った寫真には、でこぼこの山道と人家もないような荒れ地の中にとても立派な建物がそびえたっていた。それが、鈴木総合教室棟だった。
彼は退職してから日本を離れて上海に渡り、第2の人生をスタートした。殘りの人生を中國で過ごすことに決めたのだ。
2011年10月3日、鈴木さんに會った鄭さんは、彼の変化に驚いた。確かにとても元気そうで、行動的な様子だったが、以前のような悠々自適の生活を送っているといった風情ではなく、日本にいる時よりもやや痩せたように感じた。
鈴木さんが上海で切り詰めた生活を送っているのを見て、鄭さんは日本に帰ってご家族とのんびり暮したらどうかと勧めた。しかし、鈴木さんは決然と首を橫に振り、「私の目標はまだ達成されていないんです。今度は電子ピアノ、縦笛300本、ハーモニカ300個を寄付したい。子供たちによい環(huán)境で勉強してもらうだけでなく、彼らの生活も豊かにしたいんです。」と語った。
鄭さんは日本に帰ってから、鈴木さんの上海での様子を鈴木さんの奧さんに伝えた。奧さんのところにいってわかったのは、鈴木さんは少しでも早く目標を?qū)g現(xiàn)するため、日本に帰る旅費も惜しんで、もうずいぶん長い間家族に會っていないということだった。
鄭さんは「大都會で消費に明け暮れる生活をしている多くの中國人はきっと知らないでしょう。一人の日本の老人が自分の衣食も切り詰めて、貧困地區(qū)の子どもたちのために自分の殘りの人生を捧げていることを」と感慨深げに語った。
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」2011年11月19日