早朝6時50分。第一陣の爆撃機(jī)150機(jī)が相次いで飛び立ち、威風(fēng)あたりを払いながら攻め込んでいった。チューク上空にさしかかったころ、日本軍はようやく慌てふためいて戦闘警報を発令。大半の艦艇はすでにチュークを離れていたため、港內(nèi)の目標(biāo)物は事前に偵察したときほど「多く」はなかったが、米軍機(jī)は攻撃を続けた。「ゼロ戦」は米軍機(jī)と激しい戦闘を展開。だが、その質(zhì)や數(shù)、パイロットの資質(zhì)面ではるかに劣っていたことから、50分ほどの空中戦で日本の戦闘機(jī)は126機(jī)撃墜され、地上にあった戦闘機(jī)いずれも硝煙を上げてくず鉄となった。午後3時ごろ、第二陣の攻撃でチュークは再び凄慘な狀態(tài)と化した。日本軍が迎え撃つ戦闘機(jī)はわずか數(shù)機(jī)のみだった。
夜12時、米海軍航空母艦の搭載機(jī)はチュークに対し第三陣の非情なる攻撃を開始。夜間視界レーダーを備えたB-25爆撃機(jī)「リベレーター」を初めて採用し、護(hù)衛(wèi)艦戦闘機(jī)の援護(hù)を受けることもなく引き続きチュークを攻撃した。
航空母艦搭載機(jī)のチュークへの3回にわたる空襲は非常に大きな戦果を収めた。撃沈した各種艦艇は47隻、破壊した戦闘機(jī)は298機(jī)、爆死した兵士は3000人余り。特筆すべきは、當(dāng)時、多くの兵士が海中に落ちたが、米國側(cè)が救出を拒絶したため、大半が溺死したという。殘念なのは、日本連合艦隊の主力が司令官古賀峰一の指揮の下で逃走したことだ。
1944年2月22日、米軍はマーシャル諸島のすべての島嶼を占領(lǐng)した。