女性でありながら、彼女は難しい問題から逃げることなく向き合いがんばった。2003年7月、老朽ダムが暴雨のためあふれ出た水が今にも堤防を越えてしまいそうだ、という時、韋先娥は風邪をひいていたにも関わらず、率先して堤防に駆け付け、何の躊躇もなく腰のところまで深さのある水の中に入り、黨員?幹部ともども油を塗った防水布をかぶせ、土を掘り裂け目を埋めた。そのおかげで、堤防は事なきを得た。
真心
空殻樹郷蓮花臺村に住む彭長波?寧波兄弟は非常に成績優秀だったが、父親が7年前に亡くなったため、母子3人の生活はとても苦しかった。韋先娥はこのことを知ってから、彼らの生活に気を配るようになった。書記に著任していた3年間、彼女は自腹を切って、彭寧波に高校を卒業させ、服?布団?米などを買って援助した。さらに、兄である彭長波が西北工業大學に合格すると、政府からの奨學金を受けられるようにして、大學に通えるようにしてあげた。
空殻樹郷で最も立派な建物は敬老院であり、最もぼろぼろな建物は郷政府のものである。
著任したばかりの頃、韋先娥は羅家坪村へ調査に行った。そこで、二人の80歳を超える老人が孤獨に暮らしているのを知った。一人は長く床に伏せっており、もう一人は全く働くことが出來ない狀態だった。10平方メートルにも及ばない小屋には便器と料理用の粗末な道具が置いてあり、なんともいえない嫌な匂いがただよっている。韋先娥は涙を流した。郷政府へ戻ると、會議を開き、郷政府の建物を、孤獨な一人暮らしの老人に住まわせるために使おうと提案した。間もなく、郷の幹部たちは町の古い造酒所に引越してそこで仕事をするようになった。そして、郷全體の50人余りの一人暮らしの老人が、政府のオフィスビルを建てかえた敬老院へ住みはじめた。老人たちは、「こんな大きな部屋に住んだのは初めてだ。共産黨のおかげだ?!工妊预盲?。
新たな道
2006年1月、韋先娥は劉家坪ペー族自治郷黨委員會書記、郷長に任命された。
著任まもなく、彼女はある事を知った。2005年、黎安星という雙渓橋村の黨支部書記が約0.5ヘクタールの土地でポンカンを栽培しているが、売れ行きが良くなく、自分の家に置いてある1萬kg余りのポンカンを全て腐らせてしまっているということだった。劉家坪では似たような事がたびたび起こっているらしい。品も良くなく、販売ルートも確立していないという影響を受けて、ポンカンの未出荷量は大量で、80%を駄目にしてしまっていて、現地の人々にとって多大な損失となっている、というのである。
「政府は、彼らの損失が少しでも減少するよう何とかしなければならない」韋先娥は、幹部たちを率いて3つのことをした。①産業構造を改めて調整し、葛根と旬外れの野菜を前後して発展させ、新たにアメリカから種無しみかんを導入し、140ヘクタールにわたって栽培する。②専門家を招いてポンカンの栽培技術向上の指導及び実地訓練を行う。③黨上部の援助を得て、ポンカン協會を成立させ、産品流通をスムーズにする。