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中國の政黨制度

一、中國の社會と歴史が発展するための必然的な選択


中國は長い封建社會の時代を経てきた。1840年以後、西側の資本主義列強が次々と中國侵略戦爭を起こしたが、封建支配層の腐敗と衰微のために、中國は次第に半植民地?半封建社會に陥った。その後の110年近くの間に中華民族は重大な危難をこうむり、人民は民主的な権利をまったく失った。

國と民族の悲慘な運命を変えるため、中國人は一代また一代と奮起して闘い、國と人民を救う真理を探し求めることに努めた。20世紀の初め、中國の民主主義革命の先駆者である孫中山(孫文)は、目を西側に向け國と人民を救う道を探し求め、ブルジョア民主主義革命の性質をもつ辛亥革命を起こし指導し、中國を數千年にわたって支配してきた君主専制制度をくつがえし、中華民國を成立させ、さらに西側諸國の政治制度に習って議會政治と多黨制を導入した。これは君主専制制度と比べれば歴史的な進歩であったが、內外の各種反動勢力の攻撃を受けて短期間で失敗に終わり、人民の獨立、民主への切実な願いを実現することはできなかった。孫中山が総括しているように、中國社會が歐米と異なる以上、社會を管理する政治も歐米の制度を丸ごと模倣してはならないことは當然である。

1927年から1949年の新中國成立まで、國民黨の蔣介石グループは一黨専制を実行し、國のすべての権力を一手に握り、民主的進歩的な勢力に打撃を與え、それを迫害し、民主政治の発展の流れと人民の願望に逆らい、ついには歴史から見放されるに至った。

近代中國の政治が発展するにつれ國情に合致する新しい政黨制度が求められた。中國共産黨と民主諸黨派は共にこの歴史的な責任を引き受けているのである。

1921年に成立した中國共産黨はマルクス?レーニン主義を中國の実情と結びつけて、新民主主義革命の綱領を打ち出し、全國の各革命階級を団結させて民族獨立と人民解放、國の富強、人民の幸福を実現するために奮闘した。主として抗日戦爭期(1937?1945年)と解放戦爭期(1945?1949年)に成立した民主諸黨派は、民族ブルジョアジー、都市小ブルジョアジーおよび彼らと関連のある知識人、その他の愛國人士などを社會基盤とし、帝國主義に反対し、愛國、民主という政治的要求をもった中國社會の進歩的な団體である。中國共産黨と民主諸黨派は親密な協力関係を打ち立て、厳しい闘爭の中でその関係を絶えず強化し、共同で中國の平和、民主を実現するために奮闘してきた。民主黨派は抗日戦爭期には、中國共産黨の指導する抗日民族統一戦線に積極的に參加し、幅広い抗日民主運動を繰り広げ、中國共産黨と共に抗戦、団結、進歩のために努力し、國民黨頑固派の降服、分裂、後退行為に反対し、抗日戦爭の勝利後は、中國共産黨と共に國民黨蔣介石グループの內戦や獨裁政策に反対した。

新民主主義革命が偉大な勝利を上げる中で中國共産黨はその指導にあたり、各革命階級における指導的地位を確立した。民主諸黨派と無黨派民主人士は長期にわたる実踐の中で、しっかり比較しつつ、中國共産黨の指導を自覚的かつ慎重に選択した。1948年4月、中國共産黨は「新政治協商會議を招集し、民主連合政府を成立する」という方針を打ち出し、民主諸黨派と無黨派民主人士はそれに積極的に応えた。彼らは中國共産黨の指導の下で新中國成立のために奮闘する意志を表明した。1949年9月に開かれた中國人民政治協商會議は、中國共産黨の指導する多黨協力と政治協商制度を成立させ、中國共産黨と民主諸黨派、無黨派民主人士が共同で新中國の政権建設に參加することを示したのである。

中華人民共和國の成立後、中國共産黨は執政黨として民主諸黨派との団結や協力を一層強化し、多黨協力における理論上の革新、実踐と発展を絶えず推し進めた。1956年にほぼ完成した社會主義改造の後、中國共産黨は階級狀況の深刻な変化をふまえて、「長期共存、相互監督」の八字の方針を提唱し、「共産黨が存在してこそ、民主黨派も存在できること、共産黨が民主諸黨派を監督できれば、民主諸黨派も共産黨を監督できること」を明らかにした。共産黨が執政黨として指導的地位に立ったために、民主諸黨派は主として共産黨を監督することになった。社會主義の下での中國の多黨協力の基本的枠組みがここに確立された。だが1957年以後、特に「文化大革命」期(1966?1976年)には、多黨協力制度は重大な挫折を経験した。

1978年に改革?開放政策を実施していらい、中國共産黨は情勢と任務の変化に基づき、多黨協力が中國政治制度の一つの特徴と長所であることを明確にし、「長期に共存し、相互に監督しあい、肝膽相照らし、栄辱をともにする」という16字の方針を中國共産黨と民主諸黨派の協力方針として確立した。さらに多黨協力と政治協商に関するまとまった理論と政策を打ち出し、多黨協力制度を堅持かつ整備することを中國の特色ある社會主義の理論と実踐の重要な一部として位置付けた。1989年に中國共産黨が制定した中國共産黨の指導する多黨協力と政治協商制度の堅持と整備に関する意見によって、多黨協力と政治協商は制度化された。1993年に開かれた第8期全國人民代表大會(全人代)第1回會議では、「中國共産黨の指導する多黨協力と政治協商制度は長期的に存在し、発展する」ことが憲法に盛り込まれ、これが多黨協力制度の憲法上の根拠となった。2002年に開かれた中國共産黨第16期全國代表大會いらい、中國共産黨は高度な社會主義政治文明の建設に立腳し、中國共産黨の指導する多黨協力と政治協商制度の建設を一段と強化することに関する意見と人民政治協商活動の強化に関する意見を前後して制度化し、多黨協力制度をさらに規範化、秩序化している。新中國成立いらい、多黨協力制度は絶えず強固にされ、発展し、國の政治と社會活動において重要な役割を果たしているのである。

中國の近代?現代における政治発展の歴史と実踐が示すように、中國の民主政治を建設するには國情に合わせなければならない。他の國の政治制度や政黨制度を何も考えずそのまま模倣すれば、成功するわけがない。専制?獨裁統治を行うことは歴史の発展法則と人民の意志に逆行するものであり、必ず失敗に終わる。中國の多黨協力制度は、中國近代史?現代史の発展の必然の選択として形成され、発展してきたものであり、マルクス?レーニン主義と中國の実情が結びついたものであり、中國共産黨と民主諸黨派の知恵の結晶である。それは中國の國情と革命、建設、改革の実情に合った、社會主義民主政治の本質的要求に合った、中華民族の「和して同ぜず」、「多様性を受け入れる」というすぐれた文化的伝統を體現し、鮮明な中國の特色をもつものである。それは時代の流れに応じたものであり、また社會発展の內在的要求を反映するものである。