文=徐元宮
日本とロシアは、世界において重要な國でありながら、両國間には長年にわたり未解決の歴史的問題が存在している。日本の戦爭捕虜の問題もそうだ。
內外の関係する研究資料によると、1945年8月の極東全域の対日戦役において、ソ連赤軍は日本軍合計8萬人余りを撃ち殺し、約60萬人を捕虜にした。本文においては、近年來のロシアの機密解除された保存文書?資料及びソ連の労働改造所から生還した當時の日本人捕虜の証言と回想をもとに、日本人捕虜が戦後のソ連経済発展のためになした貢獻について分析する。
●ソ連側は日本人捕虜受入れの準備はしていなかった
中國東北部の臨時戦爭捕虜収容所に抑留された日本の戦爭捕虜は、時期、グループごとにソ連領內へと護送された。日本軍捕虜の総數は60萬人余り、その大半がソ連の極東と東シベリアに送り込まれた。鉄道?道路交通輸送手段が欠乏していたため、特別重要な戦犯や一部捕虜が汽車でソ連に向かった以外、多くは徒歩で中國東北部の臨時捕虜収容所を後にした。
それぞれの労働改造所に入ると、所長は捕虜を3週間、検疫のため隔離するよう命じ、捕虜の部屋番號に沿って入浴のため秩序正しく浴室に行かせた。浴室は中庭にあった。入浴する前、捕虜は頭髪や腋毛など毛と髪をすべて剃り落とし、衣服は脫いだら束ねて乾燥爐の中に入れて消毒、殺菌しなければならなかった。検疫隔離が解かれると、捕虜たちは直ちに労働の準備を始めた。
戦爭捕虜たちがしなければならない別のことは、ソ連側の尋問を受け入れることだった。過去に反ソ連?反共の悪行があったかどうかを確かめ、一旦、そうした行動があったことが分かると、そうした捕虜はすぐさま懲罰を受けるために専門の捕虜懲罰収容所に転送された。
筆者は幸運にも、ロシアの學術雑誌「歴史公文書」06年第1期において1945年9月4日の「海浜辺境地區の日本の戦爭捕虜受入れ準備作業に関する狀況資料」を手に入れた。「検査を通して、われわれは、上述した工場や鉱山、企業が戦爭捕虜を受入れるための準備作業は非常にまずく、多くの機関はいずれも準備に著手すらしていなかった。一部機関の責任者は準備作業を余りに簡単に見ており、捕虜を荒野の地に放ち、彼らが自ら住まいや廚房、トイレなど、一切の必要な施設の建設に著手するようにしたらどうか、などと常に考えていた」
●初めての冬が數多くの日本人捕虜の命を奪い去った