あっという間に過ぎた8年間
思い返せば、部隊に入った當時、悠喜子は十分に仕事をこなせる狀態(tài)ではなかった。それは、醫(yī)療衛(wèi)生方面の知識について學んだことはあったものの、すべて理論的なものであり、「臨床」経験が全くなかったからである。短期間で仕事を覚えるために、彼女は遠征參加経験を持つ婦長や周りにいる経験豊かな醫(yī)療スタッフ達に教えを請うた。そして、自分が學んだものを現(xiàn)地の女性達に教えた。すると、その女性達は、現(xiàn)地でボランティアの醫(yī)療スタッフとして活動しはじめた。
それぞれの軍役が終わるたびに、多くの負傷者が出た。病院のベッドや醫(yī)療スタッフが不足していたため、悠喜子達は簡単な応急措置を行った後は、負傷者を現(xiàn)地の農(nóng)民たちの家に行かせた。農(nóng)民たちの生活も豊かではなく、ベッドや布団も一つしかなかったが、それでも負傷者たちを受け入れてくれた。農(nóng)民たちは解放軍の二軍のような存在で、互いに兄弟姉妹のように呼び合っていた。
普段の日々の中でも、農(nóng)民がよく部隊にやってきて掃除や水汲み、食事の支度などを手伝っていた。楽な仕事ではなかったが、農(nóng)民たちは喜んでやってくれていた。収穫の秋になれば、今度は部隊の人間も同じように、田畑に入り、農(nóng)民たちの収穫作業(yè)を手伝った。
悠喜子の部隊は、解放戦爭開始に伴い、本渓から広州へと移動していった。悠喜子はどこへ行っても熱烈な歓迎を受け、中國の農(nóng)民たちをはじめとする庶民たちがどれほど解放軍を支持してくれているかを目の當たりにした。もともと數(shù)ヶ月で家に帰れるはずだと思っていたが、部隊では十分な食事もでき、楽しく生活できたため、あっという間に時間が過ぎていった。中國解放後、上層部は彼女の復員を決定、1953年3月、中國軍に8年間在籍した悠喜子は、ついに日本への帰國の途についた。
帰國後も継続的に中日民間レベルの友好交流を推進