抗日戦爭(zhēng)に參加した中國(guó)農(nóng)民と子ども
日本の侵略者が華北への侵略を強(qiáng)める情況にあって、中國(guó)の各界は內(nèi)戦の停止と抗日戦爭(zhēng)を戦うことを求めた。中國(guó)共産黨は、多くのルートを使って國(guó)民黨に向け內(nèi)戦停止と抗日協(xié)力を呼びかけた。
しかし、蔣介石はなお中國(guó)共産黨のいる陝西省北部の根拠地に向けて「包囲討伐」の準(zhǔn)備を続けていた。1936年12月4日、蔣介石は西安に到著後、張學(xué)良と楊虎城に部隊(duì)を率い、陝北前線で「包囲討伐」を行うよう迫った。こうした狀況下で、張、楊の2人は「兵諌」を発動(dòng)し蔣介石を拘束した。これが內(nèi)外を震撼させた「西安事件」である。そして、交渉を経てついに蔣介石に「共産黨討伐を停止し、紅軍と連合して抗日する」など6項(xiàng)目を承諾させた。これ以降、內(nèi)戦は実質(zhì)的に停止し、國(guó)共両黨の関係は好転し始める。
中國(guó)共産黨は、抗日戦爭(zhēng)が開始されるや広範(fàn)に民衆(zhòng)を発動(dòng)し、武裝し、民衆(zhòng)に頼りとする対日作戦を提起し、人民戦爭(zhēng)の全面的抗戦路線を?qū)g行した。しかし、大地主や大資本家階級(jí)の利益を代表する國(guó)民黨は、民衆(zhòng)による抗日救國(guó)運(yùn)動(dòng)の急激な高まりが自らの支配的地位をおびやかすことを恐れ、単に政府と軍隊(duì)が抗戦する一面的抗戦路線を選んだ。
中國(guó)共産黨は全面的抗戦路線を貫徹するために、敵の後方で戦場(chǎng)を開くという戦略を決定した。人民の軍隊(duì)が敵の後方で民衆(zhòng)を発動(dòng)し、獨(dú)立自主の遊撃戦を展開し、友軍と力を合わせ、敵の後方で戦場(chǎng)を開き、抗日根拠地を築き、人民の軍隊(duì)を発展?拡大させた。敵後方での抗日遊撃戦の進(jìn)展に伴い、中國(guó)の抗日戦爭(zhēng)は、次第に戦略上の相互協(xié)力をする2つの戦場(chǎng)を形成するようになっていった。1つは主に國(guó)民黨が率いる軍が擔(dān)う正面の戦場(chǎng)で、もう1つは共産黨が指導(dǎo)する軍が主力の敵後方の戦場(chǎng)だった。
1938年10月、武漢と広州が攻め落とされ、中國(guó)の抗日戦爭(zhēng)は戦略対峙の段階に入った。日本の侵略軍は、中國(guó)を滅亡させる大方針を堅(jiān)持しながら侵略の策略を調(diào)整し、戦場(chǎng)の戦略的進(jìn)攻を停止して、主要な戦力で八路軍と新四軍を攻撃した。國(guó)民黨に対しては政治的投降勧告を主にし、軍事的打撃は補(bǔ)完的なものとする方針だった。
蔣介石を代表とする國(guó)民黨の一部は消極的な抗日、積極的な反共政策を推し進(jìn)め始めた。全國(guó)の人民と國(guó)際世論は総じて共産黨に同情的で、國(guó)民黨當(dāng)局による考えの異なるものを滅ぼし、抗日戦爭(zhēng)を破壊しようとする姿勢(shì)を厳しく非難した。中國(guó)共産黨の全國(guó)における政治的地位はこれまでになく高まった。1940年末までに、中國(guó)共産黨が指導(dǎo)する軍隊(duì)は抗戦開始時(shí)の5萬余りから50萬に膨れ上がり、さらに地方には武裝民兵を多數(shù)擁していた。
1941年から42年にかけて、世界ではファシスト勢(shì)力が猛威をふるっていた。日本軍の激しく頻繁な攻撃のもと、抗日根拠地は縮小し、総人口は1億人から5000萬人以下となり、人民の軍隊(duì)は50萬人から40萬人に減少した。そうした中、中國(guó)共産黨が指導(dǎo)する敵後方の軍と民衆(zhòng)が、十分に人民戦爭(zhēng)の威力を発揮していた。スズメ戦、地下道戦、地雷戦、破壊?襲撃戦、水上遊撃戦、武裝工作隊(duì)派遣など、各種の有効な敵をせん滅する戦法を創(chuàng)出し、抗日活動(dòng)を堅(jiān)持した。
1945年8月15日、日本の天皇が無條件降伏を宣言し、中國(guó)の抗日戦爭(zhēng)は勝利のうちに終結(jié)した。中華民族は抗日戦爭(zhēng)勝利のために甚大な犠牲を払った。中國(guó)軍民の死傷者は3500萬人、直接の経済的損失は1000億ドル、間接の経済的損失は5000億ドルに達(dá)した。
中國(guó)共産黨は抗日戦爭(zhēng)の中で120萬余りの黨員を持つ大きな黨に成長(zhǎng)し、人民の軍隊(duì)は120萬人の規(guī)模となり、抗日民主根拠地の面積は100萬平方?、人口は1億に近づいた。これらすべてが、その後政権を奪取するための基礎(chǔ)となった。(『中國(guó)共産黨簡(jiǎn)史』(中國(guó)共産黨黨史出版社)に基づく 構(gòu)成=王 征 翻訳=井上 俊彥)
?人民中國(guó)インターネット版?より2011年6月13日