北京の豪雨は37人の命を奪い、周りの河北省でも昨日午後までに17人の死者と21人の行方不明者を出した。豪雨後の災害との闘いは力強いものだったと言えるが、殘念なことに災害への防備は高い水準だったとは言えないのは明らかだ。災害と闘う能力は高いが、防災能力は低い。これが現代中國の実情だ。人民日報系の國際情報紙「環球時報」が伝えた。
四川大地震の際の災害との闘いは日本の津波の際の被災者救済を見劣りさせるほど優れていたのに、火災や地震に対する日常の防備能力が日本などの先進國に大きく劣るのはなぜだろうか?
體制上の優位のおかげで中國政府は危急存亡の時に各種の力を迅速に結集することができる。このため被災者救済活動は先進國よりも優れていることが多い。だが防災は全く別の話だ。防災には國の資源結集能力は余り役立たず、社會全體の安全意識や、安全強化のために大規模な取り組みをするという社會(政府と民衆を含む)の決意にかかっている部分が大きい。
中國は全體として「金儲け第一」の段階にあり、お金を稼いで良い生活をすることが社會の日常的運行の潛在的車軸となっている。個人の生活や仕事の面では、より多くのお金と、より高い地位のためには安全性を一定程度犠牲にしても構わないという人が多い。生活水準の低い人ほどこの傾向は顕著だ。
こうした価値指向は一部地方政府のレベルでも余り変わらず、その取り組みの方向性に深い影響を與えている。中國の各地方政府はおしなべて経済成長と民生に注意力の中心を注いでいる。だが民生に対する理解は人々に「良い生活をさせる」、つまり良い衣食住や交通手段のことで、最近ではこれに教育や醫療も加わった。このような民生に対する理解では、政府は民間より優れているとはいえない。
先進國社會の「安全」の概念は、中國ではまだまだ根付いていない。中國の大都市はハード面ではすでに先進國に少なからず近づいている。だが先進國が最も際立って中國よりも進んでいるのが安全だ。先進國社會では食品の安全性が高いだけでなく、交通や救援など生活と関係する各分野であらかじめ安全対策が講じられている。大規模な自然災害に対する社會の準備や個人の備えも中國の水準を遙かに上回る。
災害との闘いには多額の資金がかかるが、実は防災には時にそれ以上の資金がかかる。より重要な點として防災は「無駄に終る」可能性もある。しかも防災がしっかりしているほど「無駄に終った」ように見えるので、少しでも決意が緩めば「より切迫している」別の事を優先させてしまうのだ。また、災害との闘いであれ防災であれ、全ての経費は最終的には公衆の負擔だ。政府自體は収入を生み出さず、全ての予算は稅収によるものだ。
現在判斷する必要があるのは、安全性の強化により多くのお金を投じる心の準備が中國人にできているのかどうかだ。
ある幹部は中國社會にはこうした準備は全くなく、公共の安全に対するメディアの大聲疾呼は「出來もしない立派な事を言う」であり、中國の実情からかけ離れていると指摘する。
だがこれは偏った見方だ。メディアと世論の本當の考えには確かによく距離がある。だが安全の重視が中國人の様々な願いの中で最も急速に高まっているものであり、様々な事件によって強化されることの最も多いものであることも間違いない。新たな民意の現実はすでに、政府が行動を起すに十分な環境を整えている。公共安全への取り組みの強化は現在の中國にとって推し進めることのできる事だ。
防災能力の強化において、政府は公衆の意見よりも先を行くべきだ。少なくとも後塵を拝すべきではない。現在、公共の安全に対する一部地方政府の取り組みは納稅者の意識の高さに及ばない。この原因について批判者は安全関連施設、特に地下の安全関連施設は政府に「面子」をもたらさないからだと指摘する。これは幹部個人の安全が比較的保証されていることと関係があるとの批判すらある。各地の幹部はこうした批判と真剣に照らし合わせ、胸に手を當てて自問すべきだ。
防災能力の建設について政府、メディア、公人は本當の事を話し、そのメリットを明確に説明すると同時に、公衆の負擔もはっきりと示すべきだ。誰しも、出來もしない立派な事ばかり言ったり、自らの支持率ばかり追求すべきではない。中國の現代化は、公共の安全をより多く創出する方向へ調整しなければならない。これは全ての先進國が歩んだ道であり、中國にも別の選択肢はないのだ。
「人民網日本語版」2012年7月24日