周恩來総理に初めてお會いしたのは、1958年1月、私が両親に連れられて北京に移住して間もなくだった。當時私は中學3年生、北京の第25中學3年に編入してもらった。しかし、中國語は「你好」(ニーハオ)くらいしかできなかったので、毎日學校に通い、教室に座っていても、先生が何を言っているのか、生徒たちが何を話しているのかさえ、ほとんど分からなかった。
寫真提供=西園寺一晃
そんなある日、両親から「明日、周恩來総理の家に招待され、一緒に晝食をする」と聞かされた。前の日、そのことを筆談で先生に伝えた。擔任の先生は朝のホームルームで、クラス全員に話してくれた。途端にみんながワーッと言って、席を立って私の周りに集まり、手を握ったり、ハグをしてくれた。周総理はそれだけみんなから尊敬されていた。周総理は最も身近に感じられる「偉大なお父さん」的存在だったと思う。そんな人に會えるなんて、みんな自分のことのように喜んでくれた。
中南海西花庁、中南海は共産黨や政府の高官が住み、執務するところだ。高い塀に囲まれた、広大な庭園の中に、小高い山あり、池あり、遊歩道ありの優雅なところであった。
初対面の周総理は、新聞やニュース映畫で見るのと、少しイメージが違った。公式の場所には、いつもパリッとした人民服で現れ、威厳を感じた。しかし目の前の周総理は、普通の中國人と同じ木綿の人民服を著て、布靴を履いた、普通のおじさんだった。その姿、笑顔を見て、私の緊張は解けた。隣には優しい笑顔の鄧穎超夫人がいた。
中國の盛大な宴會を何度か経験した私だったが、周総理家の晝食は至って質素だった、野菜炒め、スープ、漬物、肉は少なかった。でも晝食にも家庭料理的な溫かさを感じた。そして私はあることに気づいた。それも私の緊張感を和らげた要素だったかもしれない。
晝食中、周総理は私に何度も話しかけてくれた。殘念ながら當時は、まだ中國語が良くできなかったので、通訳さんを通じてのものだったが、その會話は今でもはっきり覚えている。
「君はこれから長く北京に住む。いろいろなものを見、聞くだろう。中國には良いところもあり、遅れたところも多い。良くないものを見たり、悪いところに気づいたら、友達に言いなさい。聞いてくれなければ先生に言いなさい。先生が解決できなければ校長に言いなさい。それでもだめなら私のところに言いに來なさい。私たちは、譽め言葉ばかり言う友人より、欠點を指摘し、時には批判してくれる友人が欲しいのだ」。
「たくさんの良い友達を作りなさい。それが將來君の大切な財産になる。それはまた中國と日本の貴重な財産になる」。
私は父から、周総理は若い頃日本に留學したと聞いていた。でもその頃の日本は、中國を植民地にしようと、虎視眈々と狙っていたとも聞いた。周総理は、日本に良い思い出はないのではないかと、私は思った。私は恐る恐る周総理に「総理は日本が嫌いですか」と聞いた。周総理は、遙か昔の留學時代を懐かしむように、ゆっくりと話してくれた。
「日本は山も川も、海も美しい。多くの人はとても勤勉で優しかった。私は當時とても貧乏で、時には食事代もなかった。そんな時、下宿のおばさんがね、よく家に招いてご飯を食べさせてくれた。あの時の豆腐は美味かったなあ」。
その後何度かお邪魔する機會があった。私は周総理の質素さに驚いた。靴下にはツギが當たっていた。普段來ている人民服は、洗いさらしで、色もずいぶん落ちていた。家で飲むのはお茶ではなく白湯だった。秘書さんに聞いた話だが、周総理は香港やマカオから來た華僑の代表に會う機會が多かったが、時に高級食材や栄養剤を土産にもらうことがあった。でも周総理は、自分の口に入れることはなかったという。病気の幹部や、秘書、コック、運転手などの身內に病人がいると、それらを與えた。貧しい時代であった。貴重なものはすべて他人に與えた。(止)
西園寺一晃 2021年5月21日
人民中國インターネット版 2021年6月29日