1983年5月5日
北京の自動車製造工場と米自動車メーカーの代表が「経営協議書」と「合弁規定」を締結し、中國で初となる合弁自動車メーカーが北京に誕生した。
1985年
國內で初となる合弁乗用車メーカーが誕生。中國の現代的な自動車工業の発端となった。1985年3月、改革開放の総設計師といわれた障?小平が最終決定を下した國內初の合弁乗用車メーカー、上海大衆(VW)が成立。
1988年5月17日
第一汽車(以下、一汽)とドイツの大手自動車メーカー、フォルクス?ワーゲンがアウディの技術上と協議を締結した。これより2年前、一汽は輸入部品を組立てる形で「アウディ100」を100臺と試験的に組み立て、本當の意味で中國企業が國際基準の高級車を大量生産した。
1991年2月8日
一汽大衆有限公司が長春に設立。投資額42億元。中國とドイツの持株比率は6:4。中國最大の合弁自動車メーカーが誕生した。
1997年
広州標致(プジョー)の失敗はひとつの悲劇となり、中國の「三小」(小型車を北京汽車、天津汽車、広州汽車に限定する政策)構造を変えることになったが、中國の自動車工業の発展の歩みを止めることはなかった。プジョーは2003年に再び巻き返しをかけ、今では中國で順調に発展している。1997年、設立から12年の広州標致が破産宣告し、プジョーは広州から撤退した。ホンダが1ドルで広州標致のすべての株と債務を買い取った。