于強さんは1945年、江蘇省南通市に小商いを兼ねた農民の家庭に生まれた。幼い頃から聡明で文學を好み、両親の勵ましのもと、文學に対する夢を葉えようと、北京大學中國文學部の受験を志す。だが、思い通りにはいかないもので、1964年の入試時に病を患い、十分に実力を発揮できず、惜しい結果となった。翌年、その屈辱を晴らすべく努力した彼は、再び大學入試を受け、北京大學の國際政治學部への入學を果たすが、希望に胸をふくらませた彼の文學に対する熱意は衰えることがなかった。しかし、彼を気落ちさせたのは、入學して1年足らずで「文革」が勃発したことだった。學生らは「階級闘爭」の渦に巻き込まれ、文學界?蕓術界はいずれも沈黙を守り、ただ革命模範劇だけがわが世の春を謳歌し、あらん限りの悪罵を浴びせることに腐心する大々的な批判の文章が流行の文學となったのだ。1970年、于強さんは安徽省の解放軍部隊の農場に配屬されて「再教育」を受けることになった。かくも冷酷な現実に直面した彼は、「もはや作家とは無縁の人生、文學への夢は潰(つい)えた」と天を仰ぎ大きくため息をついた。
だが、世も捨てたものではなく、嵐のような「文革」も終わり、文學界にやっと明かりが差し始め、于強さんの人生にも希望がもたらされた。1974年、中國共産黨の馬鞍山市委員會秘書に抜擢された彼は、かつて記者を経験していた秘書長から才能を見込まれ、余暇を利用して文章を書くよう勵まされる。朝から晩まで勵んだ彼は、數百篇にのぼる短文を次々と発表する。1983年、于強さんは馬鞍市外事弁公室の主任兼旅游局局長に就任。職務柄、國內外のさまざまな人々と接し、たびたび海外へ視察に行くようになった彼は、豊かに彩られた広い世界を肌で知り、大量の創作の素材を目の前に、水を得た魚のように作家となる夢を再び抱くようになる。とはいえ、どのような題材から手をつけたらいいものか、決めかねていたとき、ある人物の出現が、中日を題材とした小説の道へと彼を踏み出させた。その人物こそ、彼の処女作『風媒花』の主人公のモデルとなった古蓮雲さんだった。1984年のある日、日本の殘留孤児であった古蓮雲さんが于強さんを尋ねてきた。涙に聲をつまらせながら彼女は自分の悲慘な境遇を于強さんに訴えた。日本の敗戦時、4歳だった彼女は大連で両親に捨てられ、善良な中國人の養母に育てられた。解放後、政治運動が起こるたびに日本人であるために一家離散の憂き目に遭い、苦い思いをしてきた彼女は、彼女の一家が落ち著いて暮らせる政策措置を、と政府に陳情に來たのだった。胸いっぱいの正義感と同情の想いを抱いた于強さんは、ただちに上に報告し、古さん一家が黒竜江省の農村から市內に戻って就業できるように手配した。大みそかの日、于強さんは吹く風も降る雪もものともせずに、貧しい古さんの家に正月用の品を屆けに行き、彼女たちの住居の問題も解決してあげた。古蓮雲さんは感涙にむせび、苦しいときに助けてくれた于強さんを親戚のように思い、彼に対して心の內の苦しみを洗いざらい吐き出した。古蓮雲さんの苦難に満ちた人生は于強さんの心を揺さぶり、このことを題材に小説を書こうという思いが急に浮かんできた。その後の2年間、彼は涙をたたえつつ余暇を利用して機に向かい、一気に筆を運び、ついに20萬字の処女作『風媒花』を書き上げた。この小説は、日本の著名な作家である伊藤桂一氏など、友人たちの溫かい協力を得て、1987年、日本の光人社から出版された。當時はちょうど殘留孤児の肉親探しが盛り上がったときで、肉親探しの孤児の一群とともに、『風媒花』は日本列島にくまなく知られるようになった。日本の主なメディアがこれを詳しく報道したため、國會議員や文壇の巨匠、市長、教授、僧侶、市民などから次々と于強さん宛てに読後感を書いた手紙が寄せられ、高い評価が與えられた。しかし、「好事魔多し」で、“塀の中で花開き、塀の外に香りが漂い出た”『風媒花』は日本では評価を得たが、中國國內では非難を浴びたのである。ある左翼的傾向の強い市の指導者が、于強さんの小説が國外で出版されたことに対してみだりに非難し、政治的な問題があると疑い、そのことをコメントし、審議にかけるなどして大騒ぎになったのだ。芯の強い性格の于強さんは筋を通して一歩も引かず、「私は戦爭の被害者のためにその無実の罪を晴らし、中日友好という名の建物にレンガを添え、瓦を葺いている。そのことの何が間違っているというのか!?」と言い、その指導者は事実を前に最終的には口をつぐんだ。圧力を畏れない于強さんは文化界の人々から深く敬われ、日本語版の『風媒花』は馬鞍市の1987年度の文蕓創作賞を受賞した。こうした荒波を経験した于強さんは密かに「命ある限り、戦爭孤児のために聲をあげ、中日文化交流のために筆を止めない」と誓う。1989年、中國語版の『風媒花』が中國で出版され、各界の反響を呼び起こし、數十に及ぶ新聞、雑誌が同書の紹介記事や書評を掲載し、安徽人民放送局は長時間の番組をネットワークで組んだ。『風媒花』の順調な出足で于強さんは中國作家協會會員として認められ、ついに文學の道を歩むという夢を葉えた。のちに彼は、自らを向上させようとすれば、時に波風を恐れずに果敢に前進することもある、と述懐している。
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