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漢字を介したことばの交流(2)
発信時間: 2010-01-15 | チャイナネット

 新しい日本語はいかにつくられたか

「近世西洋文化をわが國語の中に伝えたるものも亦主として漢語たり」と山田孝雄は『國語の中に於ける漢語の研究』で述べている。つまり、日本は西洋文化を受け入れるためにどうしたかといえば、今のようにカタカナ語を當てるのではなく、漢語に翻訳した。もちろん新しい物だけではなく、見たことも聞いたこともない新しい文化や技術や概念であるから、そのような漢語は中國にも日本にもない。そこで、中國の古典にあることばを転用して當てたり、まったく新たにつくったりした。他にも中國が西洋文化を輸入したときに翻訳書に用いたものや、わが國が西洋文化を輸入するために中國の古典に典拠のあるものをわが國が選定したものがある、と述べている。當時の日本の武士階級には根底に教養としての漢文?漢語が備わっており、新しい文化や概念を読み解くにも「漢才」が縦橫に発揮されたのである。

學術用語確定の努力が學問の広汎な領域で、明治の初年から20年代の半ばにかけて、意識的にまたきわめて精力的に行われていた。

 

橫浜鉄道蒸気車通行の図。明治5年新橋―橫浜間に鉄道が開通、わずか1時間で行けるようになった(神奈川県立博物館蔵)

 

穂積陳重博士は、その苦労をつぎのように言っている。法政學者が法政學のことばをつくったときの苦心は一通りではなかった。明治10年(1877年)前後はまだ日本語で西洋の法律の説明がかろうじてできる程度で、明治20年ごろまでは日本語で法律の講義をするのは大変難しかった。したがって明治14年東京大學の講師となった時は、教科は英語の教科書を使い、英語で講義をしたという。

新宿路上の禁煙マーク。中國語?ハングル?英語と日本語で表示されている。多少の違いはあれ、漢字はアジア語でもある

今や高級官僚、政治家やありとあらゆる分野で、日本の頂點を極めている人々を輩出している、東京大學法學部が自國語の日本語で講義さえできなかったほど、當時の日本語は貧弱であった。

大隈重信の『開國50年史』に藤岡勝二が書いた「國語略史」によれば、「江戸に初めて渡來した西洋の文物は維新後も続々輸入され、國語の內容も豊富になった。専門語はその國のことばを用いることが多く、日本語にも各國のことばが入り混じったが、とくに英語は著しく普及し、日常のことばにも數百ものことばがとり入れられ、看板や商標などもその字を使って表記している。數字もアラビヤ數字を知らぬものはまれで、さらに著しいのは日本語化した漢語で西洋語を翻訳したものが日を追って増えた。印刷術も長足の進歩をし、新しいこれらのことばが出版物に現れ、國民が等しくこれを理解するようになった」という。

私がなぜこのような話を長々と引用するかといえば、冒頭で述べたように日本語が歴史の中で三度にわたって大きく変化した姿が、時代の違いはあれ明治に映し出されていると思うからである。目を見張るような進んだ文化が日本に渡ってきたときの、人々の驚きと嘆息が伝わってくる。

鎌倉?室町時代に宋から新たな文化が伝來したときも、きっとこのような光景があったと思われる。いかにも新しい文化的な雰囲気を持つ「玄関」「暖簾」「簞笥」「椅子」や、日本の家屋にはなかった「炬燵」「行火」などの暖房、おいしそうな「豆腐」「納豆」「饅頭」「饂飩」「蒲鉾」、今では欠かすことのできない調味料の「味噌」「醤油」「砂糖」などがやってきたのである。日本文化は模倣文化といわれるが、よくぞ真似してくれたとご先祖に感謝すべきである。こんな素晴らしいものを伝えてくれた「宋」とは一體どんな國であろうか、と羨望と憧憬をもって新文化の伝達者である僧の説法に耳を傾けたに違いない。

?日本から中國に移入された漢語

1873年(明治6年)5月1日、オーストリアのウィーンで開かれた博覧會に日本は初めて參加。 (『墺國博覧會參同紀要』より)

「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」といわれた明治時代は、新しい制度と文化と技術の移入に、國を挙げて取り組んだ時代であった。「尊王攘夷」を標榜した倒幕派も、明治になると一転「文明開化」にいそしみ、殖産興業や富國強兵?脫亜入歐などの一連の政策を推進する。「鬼畜米英」と叫んだ戦前から、戦後一転して親米「民主主義」を導入するように、良し悪しは別として日本は、新しいものや変化にきわめて順応しやすい。西洋建築、髪型、洋裝、洋食などから、郵便や電信 などにいたるまで西洋化が急ピッチで進められた。さらに植民地経営で莫大な富をアジア諸國から吸い上げていた西洋列強にならって、軍拡に走り、1894年と1904年にそれぞれ清國とロシアに戦爭を発動し、莫大な賠償金と利権を得る。

まさにこのころ、西洋化にある程度の成果を得た日本から和製漢字が中國に移入されていく。中國に孫文(1866~1925年)をはじめとする憂國の士が現われ、一足先に西洋の新しい技術や文化を得た日本から思想や近代科學とともにことばも移入する。それは科學技術、政治経済、制度や思想など多岐にわたっている。

科學や醫學では、「科學?化學?現象?液體?蒸発?物質?材料?分析?実験?作用?伝播?電流?電話?反応?反射?醫學?動脈?細胞?潰瘍?結核?手術?消毒?進化など」科學や醫學の概念とそれを実験?証明する器具や論理を説明することば。

政治経済では「政治?経済?革命?政黨?政府?主席?総理?議決?議案?議會?否決?政策?軍事?警察?財政?経理?企業?破産?投機?金額?消費?生産?商業?商品?不動産など」國造りに必要な基本的なシステムやその運営に欠かすことのできない概念。

制度や思想では「社會?身分?自治?主権?権利?法律?法廷?刑法?判決?批判?義務?反動?交渉?獨裁?労働?代表?解放?情報?新聞?原則?現実?民主?共和?互恵?交通?軍國?命令?思想?唯物論?共産主義?抽象?概念?運動?積極?客観?観念?意識?目的?手段?要素?要點?判斷?説明など」いわゆる社會科學的用語。

「教育?歴史?數學?物理?體育?保健?美術?哲學?文學?文明?文化?建築?學位?試験?環境など」の教育や人文科學に関する用語などである。

このようにみると、ほとんどのことばが現在も、日常的に使われている。それは中國においてもまったく同様に日常生活に欠かせないことばであり、現代の政治や経済においても重要なことばばかりである。

農文協の『図説 中國文化百華』の『漢字の文明 仮名の文化』で著者の石川九楊先生は、「大陸に生じた漢語が裏に西歐語を貼りつけて再び暴力的に里帰りした一面がないわけではない。むろん、そのことをもって東アジアの近代化に貢獻したと言えるようなものではないが」といっている。

孫文の辛亥革命から毛沢東をはじめとする中國共産黨の中華人民共和國成立にいたるまで、これらのことばが果たした役割は確かに大きい。とはいえ、これらのことばがもたらした代価も決して小さくはない。ただ、同じアジア人としてことばを共有し、文化を享受できたことを喜ぶべきなのかも知れない。

?「人民中國インターネット版」 2010年1月15日

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