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日本に到著したばかりの時、私には日本の多くのところになじめなかった。例をあげると日本の「音」である。
住宅街は靜かでまるでみな空き家のよう
先ず「靜か」なのがなじめないところを言おう。
日本では地下鉄が人々の主要な交通手段である。駅が行きかう人でどんなに混雑していても運行中の地下鉄車內は大変靜かである。日本人は規則正しく座るか立っていて、無表情に窓の外を見るか見ないかわからない様子でながめている。知合い同士でもほとんど話をしない。全ての人が申しあわせたかのように靜かなのだ。社內での唯一自由に響いているのは車掌(運転手)の駅名を放送する聲のみである。
地下鉄車內だけでなく公共の場、つまりホテルや住宅街等で比較的に「私人」の場はどこでも非常に靜かである。大小のレストランでは人々はうつむき加減に低い聲で話しており、店內で放送している軽音楽は聞いてはっきりした明るいもので、じゃんけんをして酒を飲みあう例の類の場面も全く見かけない。
多くの日本の家庭の婦人は仕事はしておらず、晝間は家庭で家事をしたりテレビを見たりしているが、もし私が大きな住宅街を通りかかった時には、各家々はまるで空き家であるかのように感じるほどで、自分の歩く足音と吐く息の音が聞こえるのみであった。
なぜこのように日本人は靜けさが好きなのだろうか。家の中でもその「為さんと欲する所の事を為す」事ができないとしたら圧迫感を感じないのだろうか。日本の友人が言うには、日本人は靜けさは一種の喜びだと考えているそうだ。
私の教えている中國語クラスでは40數名の青年期の日本の學生が學んでいるが、みな靜かで先を爭って発言する者はなく、私が「わかりましたか」と問いかけても「わかりました」と大きな聲で私に言ってくれる學生は大変少ない。他の外國人教師も私と同じような體験を持っており、教え始めた頃は自分の教え方が適當でないのかと心配したが、のちに解ったのは日本の學生は教室では聴く事とノートを取る事が習慣になっており、質問をしたり互いに影響しあう事には慣れていないのだ。このような靜けさも喜びなのだろうか。私は困惑している。
日本のスーパーは本當に騒がしい