「參考消息」11月4日の記事によると、前原誠(chéng)司外相は9月に著任したばかりで、もう既に近年まれに見る深刻な情勢(shì)に直面している。ロシアや中國(guó)との間のごたごただけでなく、普天間基地などアメリカとの関係を左右する肝心な問(wèn)題さえまだ解決の兆しが見えて來(lái)ない。同時(shí)期に3つの大國(guó)と外交問(wèn)題を抱えると言うのは、戦後の日本の歴史の中でも前代未聞である。前原外相はなぜ、にっちもさっちも行かない袋小路に追い込まれたのか?「參考消息」の記事が言うには、原因は単純ではなく、前原外相の外交に対する考え方や本人の性格や民主黨政権の現(xiàn)狀など複雑に絡(luò)み合っている。本人の性格について、記事では以下のように分析している。
外交思考の未熟さ
前原外相に降りかかった問(wèn)題は、本人の性格とも確実に関係がある。著任してから2ヶ月間の行動(dòng)を見ていれば、外交政策の面において問(wèn)題がある事が良く分かる。
まず、前原外相は冒険心と投機(jī)心が強(qiáng)すぎて、未熟である。前原外相は民主黨內(nèi)では「少壯派」だと言えるが、同期の政治家に比べれば、政策の印象が安定性に欠け、成熟していない。2005~2006年に、黨の代表を務(wù)めていた時(shí)、當(dāng)時(shí)政権を握っていた自民黨を攻撃するために、欠陥だらけの偽メールを証拠に使い、結(jié)果、まだ何ヶ月とも経たないうちに辭任する事となった。當(dāng)時(shí)、彼の変わりに矢面に立っていた民主黨議員は後に自殺している。この「永田メール問(wèn)題」以降、日本の政界とメディアでは少なからずの人が、前原外相の性格は慎重さに欠け、危なっかしいと感じたのではないだろうか。
今回、ロシアのメドベージェフ大統(tǒng)領(lǐng)が北方領(lǐng)土の國(guó)後島を訪問(wèn)する前、前原外相は計(jì)畫を中止するよう要請(qǐng)していた。この方法は一見、強(qiáng)硬姿勢(shì)のように思えるが、柔軟性に欠けている。相手が島に入ってしまうと、橫浜のAPEC會(huì)議の開催を目前に控えている日本としては外交的に良い雰囲気を作らなくてはいけないので、前原外相はただ渋々、駐ロシア大使を一時(shí)帰國(guó)させるしかできなかった。
また、前原外相の外交思考は一直線で、対決姿勢(shì)むき出しである。彼の専門は國(guó)際関係ではあるけれど、長(zhǎng)い間、反対する立場(chǎng)の野黨に居て政府の政策にはあまり攜わって來(lái)なかった為、外交の経験が淺い。また、野黨の人間なら、態(tài)度が少しくらい強(qiáng)引でも、使う言葉が少しくらい過(guò)激でも大きな問(wèn)題にはならなかった。しかし、政権を握る黨の側(cè)に居る人間として、更には外交の責(zé)任者である外務(wù)大臣として、今までのような考え方では、悪い結(jié)果を招くことになる。
ここ最近の出來(lái)事からも分かるように、隣國(guó)との間に問(wèn)題が起きた時(shí)、前原外相の最初の反応はどうやってこのひずみを修復(fù)するかと言うことではなく、わき目も振らずに対抗姿勢(shì)を露わにし、傷口をどんどん広げていくのだ。その結(jié)果、前原外相が「対中國(guó)包囲網(wǎng)」や「対ロシア包囲網(wǎng)」の構(gòu)築に気をとられている間に、日本はいつの間にか、孤立無(wú)援の狀態(tài)に陥ったのである。
「中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)」 2010年11月5日