どんな災(zāi)害も人類共通の悲劇といえる。自分がいかに小さな存在であり、大自然の脅威がいつ襲い掛かってくるかなど全く予測(cè)できないということに改めて気づかされる。
災(zāi)害狀況を目の當(dāng)たりにすれば、誰でも悲嘆に暮れる。被災(zāi)地にいようと、驚くべき映像を見ようと、被災(zāi)地の家族や友人を心配していようと、自らの身に危険が起きなかったことを喜ぼうと、人として、人類の一員として、他人の苦痛や災(zāi)難には同じように心が痛むものだ。國籍、民族、文化、憎しみや恨み、爭(zhēng)いまでも人類の大きな災(zāi)難に比べれば取るに足らないものとなる。
共に協(xié)力して困難を乗り越えるほかに選択肢はないのだ。災(zāi)難は恐ろしく、不安で、人の手ではどうにもならないものだが、人々を団結(jié)させ、親密にさせる。
日本で起きた今回の災(zāi)害に、複雑な心境の中國人もいるだろう。そもそも中日間はかつてあのような不愉快な歴史をもち、戦爭(zhēng)に関する記憶が刻まれ、過去の殺戮や罪の責(zé)任問題が浮上することもある。
今目の前で天災(zāi)に苦しめられている日本人は、當(dāng)時(shí)銃を振りかざした軍國主義者ではなく、個(gè)々の具體的な個(gè)人や家庭が抽象的に概念化された集合名詞でもないことは百も承知だが、感情の壁、しかも代々引き継いできた悲しみ、怒り、恨みをすぐに打ち消すことは難しい。
インターネット上の少數(shù)の過激な発言や他人の不幸を喜ぶような言葉を気にする必要などない。地震によって命が奪われ、街が崩壊したことを「天罰」というのは、罪のない者を虐殺するのと同じことではないのか?対岸の災(zāi)難を見て、復(fù)讐の快感を味わうのは、極めて利己主義で狹量な考えで、愛國とはいえない。極めて少數(shù)派の殘忍な考えや滑稽な議論はネットユーザーや中國の國民を代表するものではない。
恨みにとらわれると、衝動(dòng)で理性を失い、冷酷さで慈悲が奪われ、固執(zhí)が寛容さを追いやる結(jié)果となる。中日両國の長い交流の歴史の中で不幸な出來事は短い一瞬にすぎず、恨みを何代も引き継いでいく理由はまったくない。現(xiàn)在、そして將來さまざまな理由で衝突することがあっても、それが恨みを継続する理由にはならない。反対に理解と寛容こそが歴史問題や現(xiàn)実問題を解決する土臺(tái)となり、歴史の重荷を下ろさなければ、すばらしい未來は築けない。歴史を忘れてはならないが、許すことはできる。爭(zhēng)いはなかなか回避できないが、和解はできる。
中國の指導(dǎo)者は日本の天皇と首相に電報(bào)を打ち、中國國民からのお見舞いの意を伝え、中國救援隊(duì)が被災(zāi)地を訪れ、中國人の多くが四川大地震の時(shí)と同じように涙を流し、被災(zāi)者の無事を祈る無數(shù)のミニブログが送信されている。そこには善良な人間性、共に災(zāi)害に立ち向かう勇気と決意、暗い影から抜け出した民族の自信が伺える。
人類共通の災(zāi)難を前に、私たちは心のわだかまりを解き、支援の手を差し伸べ、共に協(xié)力して困難を乗り越えなければならない。
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」2011年3月15日