舞踴を披露する伊藤艶子さん(左)
今年85歳になる伊藤艶子さんは巖手県釜石市最後の「現役」蕓者だ。津波で家を失い、災害の爪痕を目の當たりにした。艶子さんは、歌や踴りで被災者を勵ましたいと語った。
演舞中に津波到來
津波が到來したとき、艶子さんはお客さんの前で踴りを披露していたという。巨大な波は艶子さんの家を呑み込み、すべての財産が失われた。津波の後、住宅があった場所は何もかもが変わってしまっていたという。「和服、三味線、髪飾り、全て無くなってしまった。」最も怖かったのは、廃墟と化した艶子さんの家の中に自動車と遺體があったことだという。艶子さんは思わず「どうしてこうなったのか…」と嘆いたそうだ。
現在、學校の體育館に敷いた布団が艶子さんの「家」となっている。艶子さんと同じように、100名近い人が家を失い、避難所で生活している。
艶子さんは釜石市最後の蕓者だ。今回の津波でごひいきの客を大勢失い、艶子さんはショックを受けた。「たくさんの方がお亡くなりになられて、本當に辛い。」
艶子さんの蕓名は藤間千雅乃(ちかの)。12歳のとき、父が重い病気にかかり、家を支えるため蕓の道に入ったのが、この職業を選んだきっかけだという。
第二次世界大戦後、日本経済が高度経済成長期に入ると、釜石市は製鉄業の町として栄え、蕓者業も「黃金の時代」を迎えた。
ピーク時には、釜石には約100名の蕓者がいた。艶子さんは舞踴、音楽、茶道にも精通する所謂名人だったという。
1980年代に入り、経済が低迷すると、製鉄業は徐々に衰退し、釜石市も勢いを失っていった。また、人々の娯楽も多様化し、蕓者を見に來る人や蕓者になる人の數も日に日に少なくなっていった。