文=奧井禮喜
押し並べてスカッとしない一年が終わる。夙に予測されていたとはいえ年末には政権交代があり、それなりに刺激的であったのは事実だ。久しぶりに右傾化という言葉が顔を出した。
私は1960年代後半ごろから、あいつは「右」だとか「左」だとかレッテルを貼る風潮が嫌いだった。実際、規(guī)定する人によって私自身が「右」にされたり「左」にされて、つまり右往左往させられたものであった。
この手の話は、むしろ次のような問題に核心があると考えている。
人は誰でも自尊心をもっている。しかし、自尊心の維持は容易でない。たとえば、職場で堂々と自分の意見を述べられる人は多くはない。個別労働紛爭が100萬件を超すが、大部分は上司や周囲の人々との不和である。
和製語のパワーハラスメントが定著したのもその一つである。上司が地位や権威を使って、部下を苛めたり嫌がらせする。たぶん上司もまたさらなる上司に対して首をすくめねばならないような事情があるのだろう。
上司が誰かを苛める。周囲の連中は、常識的には苛められる人を気の毒だと思うはずだが、一方で、苛められるのが自分でなくてよかったと思い、上司の覚えめでたくありたいから、それに倣うというのも常識かもしれない。
學校における苛めが大問題になるが、立派な大人社會で苛めが氾濫しているのだから、何をかいわんや。かくして苛められる人だけでなく、苛める側も糞面白くない日々を送っていると考えられる。
自分の力で自尊心の維持が思うに任さない場合、立派な大義名分、イデオロギー、なんらかの集団活動などなどに我が身を置いて、その力に同一化しようとする欲求が湧きあがりやすい。
今回の衆(zhòng)議院議員選挙で「日本的誇り」をおおいに強調(diào)する(人気者的)人々に傾倒した気風(右傾化)に、病める自尊心の投影を感ずるのである。したがって、右傾化(ブーム)は日本社會の病狀にみえる。