中國(guó)共産黨は中國(guó)の抗日戦爭(zhēng)の柱であった。中國(guó)共産黨が指導(dǎo)した敵陣後方の武裝勢(shì)力は日本軍に強(qiáng)烈な打撃を與えた。だが近年、中國(guó)共産黨の抗日戦爭(zhēng)における功績(jī)を否定しようとする歴史ニヒリズムが現(xiàn)れている。「共産黨の軍隊(duì)は動(dòng)くばかりで攻撃しなかった」。「共産黨の軍隊(duì)は『1割は抗日、2割は國(guó)民黨対策、7割は共産黨発展』のために活動(dòng)していた」。中國(guó)共産黨が築いた抗日根拠地は「占領(lǐng)した縄張り」に過ぎなかった――。
こうした問題を全面的に認(rèn)識(shí)するため、抗日戦爭(zhēng)史を研究する多くの學(xué)者が、日本や西側(cè)國(guó)家の明確な証拠と研究成果を活用し、こうした言論に有効な反論を試みている。
共産黨軍はいかに日本軍を負(fù)かしたか:持久戦
中國(guó)共産黨の遊撃戦は、「晝夜を分かたず、絶えず連続し、常に止むことのない戦爭(zhēng)」であり、日本軍を「血みどろの戦爭(zhēng)の泥沼に陥れる」ものであった。これは日本側(cè)の史料である『北支の治安戦』の記載である(訳注:引用部分は中國(guó)語からの再訳)。
この史料は、第2次大戦後に日本の防衛(wèi)庁が編纂したもので、中國(guó)侵略日本軍の大量のオリジナル資料が収録され、華北地區(qū)で抗日戦爭(zhēng)を頑強(qiáng)に続ける中國(guó)共産黨の抗日武裝勢(shì)力と日本軍との間で一進(jìn)一退の攻防が繰り返されていたことを記載している。
歴史學(xué)者の王鼎傑氏によると、持久戦は「小さな勝ちを積み上げて大きな勝利を勝ち取る」ものである。『北支の治安戦』においては、中國(guó)共産黨の武裝勢(shì)力が多い時(shí)には日本軍と一日數(shù)十回、さらには100回近くの戦闘を繰り広げ、日本軍を恐慌と不安に陥れていたことが記録されている。
日本に滯在する作家で抗日戦爭(zhēng)史研究者の薩蘇氏も、新たに得た証拠を示し、中國(guó)共産黨が指導(dǎo)した抗日武裝勢(shì)力が常に戦闘を続けていたことを証明してる。薩蘇氏によると、抗日戦爭(zhēng)期間中には、米國(guó)人記者のハリソン?フォーマンら西側(cè)のジャーナリストが、延安や晉綏などの敵陣後方の戦場(chǎng)を訪れている。フォーマンが執(zhí)筆した『Report from Red China』にはこのような記載がある。フォーマン記者らは當(dāng)時(shí)、延安から晉綏地區(qū)へと向かっており、日本軍の封鎖線を通過する必要があった。護(hù)送任務(wù)を命じられた八路軍指揮官の王長(zhǎng)江は、フォーマンが予想していたようにこの封鎖線を「こっそり通る」のではなく、馬坊(現(xiàn)在の山西省カ嵐県內(nèi))で一夜にわたって激戦を繰り広げ、日本軍の拠點(diǎn)を制し、通路を切り開いた。フォーマンは非常に驚き、王長(zhǎng)江を「八路軍のクレイジーなコマンダー」と表現(xiàn)した。