第12期全國人民代表大會第4回會議のプレスセンターは3月15日、記者會見を開いた。中國住房?城郷建設部(住房?城郷建設省)の陳政高部長は、日本のように中國でも不動産バブルが生じることはあるかという質問に回答した際に、同列に論じることはできないと強調した。
まずは時代が異なる。日本のバブル崩壊は20?30年前のことで、背景?政治?経済條件は今日と大きく異なり、完全に異なるほどだ。それから、國情が異なる。中國と日本の都市化水準は異なり、経済の発展段階、マクロ調整の措置も異なる。
日本の不動産バブルの崩壊の本質は、投資財のバブル崩壊だ。不動産は最も代表的な投資財であり、最も被害が大きかった。日本の不動産バブルの崩壊には、次の前提があった。
(一)都市化と工業化がほぼ終了し、不動産は消費者と購入者を失った。都市部で大量に不動産を購入した人の多くは、投資目的だった。中國指數研究院の研究データによると、日本の都市化は1970年代後半から80年代中頃にほぼ終了したが、高い経済成長率、全體的に緩やかな金融政策により、不動産は新たな高度発展を迎えた。不動産の裏には、高齢化の大きな危機が隠されていた。80年代中頃になると、日本の高齢化などの問題が日増しに深刻化し、都市化の段階が終了した。不動産価格の高騰には、資産と人口による確かな支えがなかった。
(二)日本の不動産は、80年代以降に再び高騰した。これは金融刺激策による結果であり、バブル崩壊という運命を決めた。プラザ合意により、歐米、特に米國は景気低迷の圧力を乗り越え、大幅な円高が生じた。これにより日本の輸出額がマイナス成長となり、経済全體が86年より低迷を開始した。日本政府はこれに危機感を抱き、紙幣を大量に印刷し金利を引き下げた。通貨供給量は87?90年の4年連続で、2桁の伸び率を示した。日銀は1986年1月に公定歩合を4.5%に引き下げ、5回の引き下げにより2.5%まで下げた。日本全國の地価は1987年に平均で85.7%増となり、住宅用地は102.5%増、商業用地は59.5%増となった。
(三)不動産バブルに気付いた日銀は、直ちに金融政策を引き締めた。不動産バブルのソフトランディングを目指したが、このバブルは栄養が不足した火星の地表上に落ちてしまった。経済が安定化し物価が上昇した1989年に、日銀は公定歩合を4.25%に引き上げた。灣岸危機の勃発後、日銀は石油価格の高騰によるインフレを防ぐため、公定歩合と基準金利を6%に引き上げた。通貨供給量と住宅ローンの伸び率が低下した。1990年末になると、不動産価格が下がった。當時の日銀はレバレッジの威力を知らず、日本の経済指標に対して盲目的な自信を持っていた。日銀は経済データが好調であり、利上げによりバブルを破裂させればソフトランディングできると考えた。
日本と比べ、中國の各種指標は大きく異なるように見える。