初めて日本を知ったのは、偏見を持ち込めない生花からだった。茶道や舞踴と同じく、日本の生花は唐の時代に由來し、1000年以上に渡り現地の文化に融合し発展し、現在に至る。
唐の時代のレベルを上回っているかはさておき、現代日本における生花の普及度と注目度は客観的に見て、唐の後継者である中國をはるかに上回っている。
生花はひっそりとした雅な趣を重視する。自然界の草花を立體的にさし、さらに水、石、土で固定し、屋內空間に置く。これを見ると自然に觸れた感覚になる。
唐の生花蕓術は今日、単純な花瓶に簡略化されているが、日本の生花は自然を超越する美しい蕓術に発展した。草花、木、ツル、果実はその人の心境、心の聲を表現する。
筆者は多くの見慣れた伝統的な花、牡丹、ツツジ、イチハツ、ヘキトウ、チョウジ、百合、紫陽花、セキチク、ハナミズキなどを目にした。それから中國の古人により君子と例えられた松、竹、梅、蘭、菊も。
これを見ていると筆者は、夢の中で唐の時代に戻った。しかし私たちは大唐の繁栄を取り戻すことを期待しているが、あの栄華を極めた時代の優れた品格と伝統を引き継ごうと考えないのはなぜだろうか。
明治神宮前の民間人による生花の展示を見ると、筆者はまた気後れした。花を愛し観賞できる人は、きっと生活を愛しているのだろうと思う。花の盛りは一日限りだが、その美を理解することで、永遠の命を持たせることができるからだ。生花はこのような靜けさを表現し、世間と融合し、瞬時にして永遠と化す。